楊令伝 十四
星歳の章(せいさいのしょう)
梁山泊軍を出奔した李英の行方を追って、姉の李媛も姿を消した。
侯真は致死軍を率いて、二人の捜索に向かう。
だが、開封府で扈成と面会した李英は斉の将軍となり、岳家軍との戦いに出陣した。
一方、楊令らは、赫元の尋問によって、南宋皇太子出生の秘密を知る。
やがて、中原一帯には自由市場が立ち、梁山泊が支配する物流の勢いは、ついに南宋にまで広がろうとしていた。
楊令伝、怒涛の第十四巻。
星歳の章 目次
地幽の光
地捷の光
天暗の夢
地僻の光
地陰の光
星歳の章(せいさいのしょう)
梁山泊軍を出奔した李英の行方を追って、姉の李媛も姿を消した。
侯真は致死軍を率いて、二人の捜索に向かう。
だが、開封府で扈成と面会した李英は斉の将軍となり、岳家軍との戦いに出陣した。
一方、楊令らは、赫元の尋問によって、南宋皇太子出生の秘密を知る。
やがて、中原一帯には自由市場が立ち、梁山泊が支配する物流の勢いは、ついに南宋にまで広がろうとしていた。
楊令伝、怒涛の第十四巻。
星歳の章 目次
地幽の光
地捷の光
天暗の夢
地僻の光
地陰の光
地幽の光
梁山泊の、南の端だった。
城郭は清河になるが、そこから五里ほど東に離れた、小さな村に養生所は建てられた。
蘇良はそこを、三名の助手とともに受け持つことになった。
武邑にも養生所は建てられ、白勝が行っている。
もうひとつ、北の束城に建設の計画があり、そこには毛定が行くと決まっていた。
洞底山からの異動である。
本賽の養生所には、文祥と三人の弟子がいる。
白勝は、弟子を育てようとはしなかった。
文祥の弟子のひとりが、洞底山へ行った。
薬は、本賽の薬方所から届けられる。
足りなくなったものを、長駆隊の通信で伝えれば、三日後には届くようになっていた。
本賽の薬方所は、薬草倉を二つ抱え、中華全土から薬草を集めている。
南の洞宮山で栽培された薬草が多いが、山中でしか見つからないものは、馬雲の弟子たちが集めてくる。
十六名いて、十名は、たえず薬草採りの旅に出ているのだ。
もう少し、文祥の下で学びたかった。
各地に養生所が必要なことはわかるが、病人や怪我人の最後の診断を、自分がやることについて、まったく自信がなかった。
聚義庁の、決定である。
民のための養生所ということになっているので、老人や女子共も診なければならない。
本賽の養生所とは、かなり勝手が違った。
わずかだが、銭も取る。
それが、負傷した兵を相手にしているのと較べて、微妙に蘇良に重圧をかけてきた。
毎日、診て欲しいという者が、行列を作っている。
それを見ると、蘇良はいつも憂鬱になった。
なぜ、こんなに病人ばかりなのだ、と思う。
考えてみれば、梁山泊には五百万弱の民がいるのだ。
数十人の病人は、むしろ少ないと言えるだろう。
それでも一日が終わると、蘇良は疲れ果てていた。
聚義庁に何度かそれを訴えたが、一度戦があると、何名の兵が死ぬと思うのだ、と言われて終わりだった。
清河の城郭から離れているので、気晴らしもできない。
離れているのは、流行りの病が拡がるのを防ぐためだった。
ここへ来て、四ヶ月になる。
はじめは無我夢中で、養生所の裏の営舎に戻ると、食事をして眠るだけだった。
養生所で働く人間は、全員そこで寝泊まりしている。
十六人ほどで、ひとりだけ村から来ているのが、賄いの女だった。
周囲のことが見えはじめたのは、ふた月ほど経ってからだ。
村のはずれの、穏やかな南傾斜に、養生所は建てられている。
厠が離れているが、十日に一度は村から汲み取りに来るので、溢れるということはなかった。
汲み取った糞尿は、熟されて肥料にするのだという。
村の中も、歩き回るようになった。
張りつめてばかりいると、いずれ保たなくなると思い、午の前後に、二刻ずつの休憩を取ることにしたのだ。
並んでいる病人は、ずっと並ばせておかないで、番号を記した木札を渡した。
村には抜け目のない人間もいて、養生所のそばに、病人が休憩する場所を作った。
茶や、雑炊などを出している。
村の人間は、全員が蘇良のことを知っていた。
清河の城郭に行っても、知っている人間はかなり増えただろう。
(…この続きは本書にてどうぞ)
梁山泊の、南の端だった。
城郭は清河になるが、そこから五里ほど東に離れた、小さな村に養生所は建てられた。
蘇良はそこを、三名の助手とともに受け持つことになった。
武邑にも養生所は建てられ、白勝が行っている。
もうひとつ、北の束城に建設の計画があり、そこには毛定が行くと決まっていた。
洞底山からの異動である。
本賽の養生所には、文祥と三人の弟子がいる。
白勝は、弟子を育てようとはしなかった。
文祥の弟子のひとりが、洞底山へ行った。
薬は、本賽の薬方所から届けられる。
足りなくなったものを、長駆隊の通信で伝えれば、三日後には届くようになっていた。
本賽の薬方所は、薬草倉を二つ抱え、中華全土から薬草を集めている。
南の洞宮山で栽培された薬草が多いが、山中でしか見つからないものは、馬雲の弟子たちが集めてくる。
十六名いて、十名は、たえず薬草採りの旅に出ているのだ。
もう少し、文祥の下で学びたかった。
各地に養生所が必要なことはわかるが、病人や怪我人の最後の診断を、自分がやることについて、まったく自信がなかった。
聚義庁の、決定である。
民のための養生所ということになっているので、老人や女子共も診なければならない。
本賽の養生所とは、かなり勝手が違った。
わずかだが、銭も取る。
それが、負傷した兵を相手にしているのと較べて、微妙に蘇良に重圧をかけてきた。
毎日、診て欲しいという者が、行列を作っている。
それを見ると、蘇良はいつも憂鬱になった。
なぜ、こんなに病人ばかりなのだ、と思う。
考えてみれば、梁山泊には五百万弱の民がいるのだ。
数十人の病人は、むしろ少ないと言えるだろう。
それでも一日が終わると、蘇良は疲れ果てていた。
聚義庁に何度かそれを訴えたが、一度戦があると、何名の兵が死ぬと思うのだ、と言われて終わりだった。
清河の城郭から離れているので、気晴らしもできない。
離れているのは、流行りの病が拡がるのを防ぐためだった。
ここへ来て、四ヶ月になる。
はじめは無我夢中で、養生所の裏の営舎に戻ると、食事をして眠るだけだった。
養生所で働く人間は、全員そこで寝泊まりしている。
十六人ほどで、ひとりだけ村から来ているのが、賄いの女だった。
周囲のことが見えはじめたのは、ふた月ほど経ってからだ。
村のはずれの、穏やかな南傾斜に、養生所は建てられている。
厠が離れているが、十日に一度は村から汲み取りに来るので、溢れるということはなかった。
汲み取った糞尿は、熟されて肥料にするのだという。
村の中も、歩き回るようになった。
張りつめてばかりいると、いずれ保たなくなると思い、午の前後に、二刻ずつの休憩を取ることにしたのだ。
並んでいる病人は、ずっと並ばせておかないで、番号を記した木札を渡した。
村には抜け目のない人間もいて、養生所のそばに、病人が休憩する場所を作った。
茶や、雑炊などを出している。
村の人間は、全員が蘇良のことを知っていた。
清河の城郭に行っても、知っている人間はかなり増えただろう。
(…この続きは本書にてどうぞ)