楊令伝 二
  辺烽の章(へんぽのしょう)

北の地で苛烈な戦をしていた幻王の正体は、楊令だった。
燕青と武松は梁山泊軍への合流を求めるが、楊令は肯んじない。
一方、呉用は、江南で反乱をもくろむ方臘のもとへ趙仁と名乗って潜入していた。
梁山泊軍との決着を待ち望む童貫は、岳飛という少年に目をかける。
呉用と楊令は会合を持ち、今後の戦略について話し合う。
国を揺るがす動乱が、北と南で始まろうとしていた。
楊令伝、戦端の第二巻。

辺烽の章 目次
 天魁の夢
 地走の光
 地妖の光
 天罪の夢
 地俊の光
  天魁の夢

火など、なかった。
卓代わりにした岩の真中が穿ってあり、そこに水の甕があるだけである。
「酒を飲みながら、話をしましょう」
水を酒だ、と楊令は言った。
幻王でなく、楊令だ、と候真は改めて思った。
見た瞬間から、楊令は楊令だった。
「水を、酒というのか?」
燕青が言った。
楊令の表情は、動かなかった。
「水を酒とでも思わなければ、あんな戦などではしないな、楊令」
「野望を、志だと思いこむのと、同じだと思いますよ、俺は」
「なるほど」
楊令は、水を杯で掬った。
燕青も、同じようにした。
武松は動かない。
どうすればいいのか、候真は迷っていた。
楊令が、眼をくれてきた。
それだけで候真の手は動き、杯で水を掬っていた。
「酒だ。気をつけて飲めよ、候真」
燕青は言った。
武松は、やはり動こうとしない。
二人が杯に口をつけたので、候真も少し飲んだ。
水だ。
しかし、水ではないという気を、どうしても拭いきれなかった。
「これが、梁山泊の味だ、候真」
楊令は、候真の方を見ずに言った。
燕青や武松を見ているわけでもなかった。
眼が合えば、全身が縛られたような気分になる。
声を聞けば、打たれたように腹にこたえる。
「幻王の味、ではないのか?」
「違うな、燕青殿。幻王は、酒にも水にもたとえられん」
蔡福を呼びに行っていた、郝瑾が戻ってきた。
蔡福と並んで、腰を降ろし、杯で水を掬った。
初めて見る蔡福は、ひどく緊張しているようだった。
杯を持つ手が、ふるえている。
「俺が訊きたいのは、ひとつだけだ」
黙りこくっていた武松が、うつむいたまま、呟くように言った。
「武松殿を、木に吊るした。
放っておくと、俺の兵が何人も死んだはずだ。
網をかけたのも、同じ理由からです」
「あんな網、破ろうと思えば、難しくなかった」
「わかっています。俺は、武松殿の心に、網をかけただけです」
「俺が訊くことに、答えろ、楊令」
「あえて、言葉にして訊かれる必要など、ありません、武松殿。
なにがあったか、すべて喋ります。
武松殿には、それを聞く権利があると思うからです」
「宋江様は」
「俺が、止めを刺しましたよ、この吹毛剣で。
宋江殿の、最後の望みでもありましたから」
「兄貴がいて、弟がいて、そして親父がいた。みんな、死んだ」
「武松殿ひとりが生き残ったのは、命というものに縁があったからでしょう。
死のうとしても、死にきれない。
武松殿は、いつもそうだったではありませんか」
「俺は、抑えるものを抑え、耐えるところを耐えている」
楊令が、二杯目の水を口に運び、声をあげて笑った。
その瞬間だけ、楊令は幻王に思えた。
笑い声が、頭から侯真を押しつぶしてきそうだった。
「死んだ人たちで、同じことを言う人が、梁山泊にはいくらでもいたでしょう」

(…この続きは本書にてどうぞ)
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