水滸伝 十
  濁流の章(だくりゅうのしょう)

官はついに地方軍の切り札・代州の呼延灼将軍に出撃命令を下した。
呼延灼は、一度だけなら必ず勝てると童貫に宣言し、韓滔らとともに、戦の準備を着々と進めていく。
凌振の大砲をはじめとして、恐るべき秘策を呼延灼は仕込んでいた。
一方、梁山泊は晁蓋自らが本隊を指揮し、万全の布陣で戦に臨む。
精強な軍同士の衝突が、静かに始まろうとしていた。
北方水滸、血戦の第十巻。


濁流の章 目次
 地威の星
 地軸の星
 天祐の星
 地英の星
 地刑の星
地威の星

子供の頭ほどの石である。
それを宙に抛る。
両断されるのが頭上で、片方が眼の高さから、もう片方が腰の高さから飛ばされる。
それは、的と決めた倒木のほぼ同じ場所に当たる。
すぐに倒木が穿ったようになった。
呆れるほどのうまさだった。
李逵はそれで、板斧を研いでもいるのだ。
石を切ることで、同時に研ぐ。
人の躰や樹木では研ぐことはできないらしい。
いや李逵以外の人間がやれば、石を切るのは徒らに刃を潰すことにしかならないはずだ。
母を養うために、石切場で懸命に働いて修得した技だった。
李逵は、時々跳ねあがっては奇声をあげる。
跳ねあがった時も石は両断され、飛ばされていた。
太原府と代州の境の、河原である。
これまで、真定府と代州の境にある、金持の屋敷に滞留していた。
そこが、李逵には気詰りだったのだ。
特に、これという理由はない。
屋敷の主人が礼儀正しい人物だったりすると、李逵はそうなってしまう。
屋敷の主人は、彭玘といった。
金持といっても、下男下女がそれぞれ三人いる程度で、自らも農耕に出ることは少なくない。
食客もそれほど多くなく、武松と李逵がいた時は、ほかに放浪している詩人がいただけだった。
李逵が、また宙を跳ねる。
飛んでいく石は、充分に武器になる。
武松は、石で囲った場所に、ようやく火を熾した。
「兄貴、この石、見てくれよ」
李逵の声で、武松は顔をあげた。
やや大きな石で、しかし変哲はなかった。
河原にはいくらでもある石だ。
「こいつ、大刀関勝に似ていねえか?」
「そうかな」
正月は、雄州の城郭で過ごした。
そこで、兵を指揮する関勝を見た。
手強いから殺してしまおう、と李逵は言ったのだ。
眼は確かで、敵に回せば手強い男だろう。
ただ、すでに魯達が接触を持っている。
それに、軍を指揮している関勝には、つけ入る隙などなかった。
「ほれ、関勝の首だぜ」
李逵が声をあげ、頭上に抛りあげる。
跳ねあがった李逵の板斧がひらめき、四つになった石のうち三つは、倒木に正確に飛んだ。
残りのひとつだけが、高くあがって消えた。
李逵が、舌打ちをする。
両断した石を飛ばす技は確実だが、四つにするとうまくいかないこともあるらしい。
同じぐらいの大きさの石で、李逵はまた試した。
今度はうまくいった。
李逵が奇声をあげて跳ね回る。
「いまのは、関勝ではないな、李逵。それより、網をあげてこい」
「兄貴、そんな」
「腰までしかない深さだぞ」
李逵は泳げない。
それで水をこわがる。
興奮すると、水も見えなくなってしまい、張順に溺れさせられたこともあった。
いつまでも潜っていられるということで、李逵は張順を認めている。
火が大きく燃えあがってくると、武松は、昨夜、河に仕掛けた網をあげるために、水に入っていった。
このあたりで食料を得るには、兎や鹿を狙うより魚を獲る方が確実だ、とほうきに言われた。
網も、ほうきから貰ったものだ。
「おう、かかっているぞ」
鯉が二尾、網にかかっていた。
武松はそれを、網ごと岸に運んだ。
「この季節の鯉は、まだ半分眠っているからな。大人しいものだ」
鯉を見て、李逵は跳ねあがって喜んでいる。
李逵にはじめて会ったのも、宋江が釣った魚が縁だった。
泳げないことを知ると、あの時李逵が、魚を持っていこうとしたこともわかる。
「兄貴は、触らねえでくれよ」
李逵はすぐに、鯉を捌きはじめた。
兎や鹿の時もそうだが、捌き方は丁寧である。
大雑把なところはなく、身を無駄にしたりもしない。
鮮やかなものだった。
鱗を取って捌いた鯉を、李逵は串に刺して火に翳した。
炎に近づけすぎているのではないか、と思ったほどである。
すぐに、表面が焦げはじめる。
「こうやると、中の汁が逃げねえんだよ」
焦げた魚体を、李逵は熱くなった石に載せた。
「いいか、兄貴。二刻だ。二刻は我慢してくれよ」
「おまえに言われるのか」
武松は苦笑した。
李逵は、料理をする時、決してほかの人間に手を出させようとしない。
そしてできあがったものは、びっくりするほどうまいのだ。
腰には、香料の袋をぶらさげている。
旅をしている間でも、香料になるものを見つけると、必ず摘んでいた。
たとえば実だけ、葉だけ摘む時、その指さきの動きは細かい。
とても、板斧を遣う時の手と同じだとは思えなかった。
李逵の荷の中には、いつも鍋と椀が入っている。
その鍋ひとつで、李逵は実にさまざまな料理を作るのだった。
石に載せた鯉が、香ばしい匂いをたちのぼらせている。
武松は、石の上に寝そべり、空を見あげた。
晴れている。
生きていてよかったのだろうか。
ふと思った。
潘金蓮のことは、心の底に収いこんである。そうやって生きよう、と思い定めた。
それでも、空などをのんびり見あげていると、不思議な思いに襲われる。生きている自分が、不思議なのだ。
いまもまだ、旅を続けていた。
宋江が梁山泊に入っても、武松と李逵の旅は終らなかった。
魯達の旅も、勿論終っていない。

(…この続きは本書にてどうぞ)
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