水滸伝 八
  青龍の章(せいりゅうのしょう)

解珍・解宝父子は、祝家荘に大量の兵が入っていることに気づく。
官軍が梁山泊の喉元に、巨大な軍事拠点を作ろうとしていたのだった。
宋江、呉用らはそれを阻止しようとするが、堅固な守りと、張りめぐらされた罠によって攻め切ることができない。
勝利を確信した官軍に対し、梁山泊軍が繰り出した秘策とは。
最初の総力戦が、いま幕を開けようとしていた。
北方水滸、緊迫の第八巻。


青龍の章 目次
 天暴の星
 地異の星
 天富の星
 地悪の星
 地勇の星
天暴の星

祝家荘の様子がおかしいと、解宝が言ってきた。
解珍は、ここ一年以上も、祝家荘に入っていない。
祝朝奉に会ったら、跪いて拝礼することを条件に、入ることを許されている。
すでに二十五年近く続いていることだった。
跪く時、解珍の心には、暗い怒りと諦めが同時にある。
息子の解宝は、幼いころからの習慣なので、特におかしいとも思っていないのかもしれない。
祝朝奉が出した条件を呑んだのは、妻の凌蘭が病に倒れ、金を必要としたからだ。
医者に診て貰いたかったが、薬を買うのが精一杯だった。
それに、あまり大っぴらに城郭を歩き回ると、役人に捕えられかねなかった。
妻は、病んで二年後に、骨と皮のようになって死んだ。
死ぬ時は、それほど苦しみもしなかった。
解宝を育てるために、解珍は祝朝奉に跪くことを続け、山で獲った獣肉を祝家荘で売るのを許された。
そのころから、怒りと諦めがないまぜになっている。
「祝家荘で買いあげるから、いくらでも獣肉を持ってこいと言うのだ、父上」
解宝は、荒々しい男に育った。
山の生活では、仕方がないとも言えるが、解珍に躾をきちんとしようという根気がなくなっていた。
解宝を、学問もあり、礼儀も知った人間に育てたいというのが、死んだ凌蘭の唯一の願いだった。
読み書きは教えたが、礼儀までは教えられなかった。
言葉遣いも、父上というのだけが丁寧で、あとはどこにでもいる猟師と同じだった。
ただ、どういう家に生まれたのかということだけは、なにかあるたびに語ってきた。
それがなぜ、山中で猟師をしているのかは、喋ったことがない。
解宝なりに、いろいろ考えてきた気配はあるが、訊かれもしなかった。
「誰が、どこへ持ってこいと言うのだ?」
「祝虎様が、屋敷に」
「祝虎は、禁軍に入っていたのではないか?」
「それが、屋敷にいる。それだけじゃないぜ、父上。祝家荘にゃ、知らねえ顔がごろごろしてる。
みんなまとまっていて、ありゃどこかの軍って感じだが、民兵の恰好をしてやがるのよ」
「そして、獣肉か」
「荘全体も、おかしい。見馴れねえもんが、いろいろとある。
荘の外も、ずいぶんと変っちまって、民兵に案内されねえと行けねえ。
道はあるんだが、二つ、三つに分かれていて、通れるのはひとつだけだ。
俺が見たところじゃ、まだいっぱいいろんな道が隠されてるな。
あそこを襲おうという、賊徒でもいるのだろうか、父上」
「賊徒かな?」
以前から、祝家荘は両隣りの李家荘、扈家荘とともに、自警団を作っていた。
それが民兵と呼ばれるほど強力なものになり、いまではどんな賊徒も独竜岡は避けて通る。
もっとも、梁山泊ができ、二竜山も梁山泊の旗のもとに入ると、この地方から賊徒の姿は消えた。
梁山泊は賊徒だという話だったが、『替天行道』という冊子を読むかぎり、賊徒どころか、官軍よりずっとましだった。
解珍は、その冊子を暗記するまで読んだ。胸の底で、わさわさとうごめくものがあった。
しかし、山を降りて梁山泊に加わろう、という気は起きなかった。
気力がなくなっているのだ、と自分では思っていた。
それに、独竜岡一帯には二十家族ほどの猟師がいて、なぜか解珍を長と仰いでいた。
解珍が山を降りると言えば、付いてくる者もいるだろう。
罠に、猪が二頭かかっていた。それを殺めて持っていけば、買って貰えるだろう。
野山のけものの肉を好むのは、兵だけだった。戦の前には、力がつくと信じられている。勇敢になれる、と言う者もいた。
「明日、一緒に行ってみるか」
「父上さえよければ」
それだけ言うと、解宝は罠の点検のために出ていった。
祝家荘で獣肉を売るのは、解珍のところだけである。
ほかの猟師は、それぞれ城郭に取引する肉屋などを持っていた。
毛皮だけは、解珍も城郭へ売りに行く。
特に高価なのが、虎の毛皮だった。
毛皮を売りに行った城郭で、解珍は『替天行道』を手に入れたのだ。
二十五年前までは、解珍は独竜岡のさほど大きくはない村の保正(名主)だった。
村民は、二千というところだったか。
土地は肥えていて、麦以外にも、さまざまな野菜がとれた。
祝朝奉から、村の併合の話があった。
独竜岡一帯を、祝家荘ほか、李家荘、扈家荘にまとめてしまおうというのだった。
役所の意向なのだと言われた。役所は、どんなことでも言う。
そして賄賂を手に入れると、すぐに言ったことを引っこめる。
しかしあの時は、賄賂を受け取ろうとはせず、逆に法外な税をかけてきた。
相談した祝朝奉は、こういうことがあるからひとつにまとまろうとしているのだ、と言って力を貸そうとはしなかった。
村を併合するのが祝朝奉の意向だったと知ったのは、すべてが終ったあとのことだ。
併合すれば、いまは対等の村人が、祝家荘の村人の下として扱われる、ということはわかっていた。
だから解珍は承知せずに、大人しく税を払おうともしなかった。
州庁に訴えようとした解珍を、役所は捕えようとしてきた。
解珍はその時、役人を二人斬って山に逃げたのだ。
祝朝奉がなぜそんなことを考えたか、いまはよくわかる。
解珍の村や、ほかの四つ五つの村は、村民が逃亡していなくなったことにされた。
だから税は祝家荘がこれまで納めていたもので済み、村であがった収穫は祝朝奉に入るという仕組みだった。
それがすでに二十五年続けられているのだ。
役所の検分は、すべて賄賂でごまかしていた。
村人が八人ほど山に逃げてきて、解珍はそのことを知った。
怒りで、躰が熱くなった。
しかし、自警団を抱えている祝家荘に、ひとりで乗りこむのは、死にに行くようなものだった。
役人を斬ったという罪状もあり、祝朝奉は迷うことなく解珍を斬っただろう。
そうしているうちに、妻が病んだ。
どこからかそれを聞きつけた祝朝奉が、山に薬を届けてきた。
そして跪いて拝礼すれば、荘への出入りを許し、役人にも引き渡さないと言ったのだ。
祝朝奉とは、そういう男だった。
自分に逆らった人間を跪かせ、勝ったという快感に酔う。
他人がどうなろうと、そんなことはどうでもいいのだ。
確かに、祝家荘で獣肉を売らせて貰うことで、ひと時、妻の薬は手に入った。
妻は、跪いて拝礼していることは、知らなかった。
妻が死んだあとも祝家荘に出入りしたのは、自分の腑甲斐なさを、心にも躰にも刻みつけたかったからかもしれない。
この山中で、自分を蔑みながら生涯を終るのだろう。
そんな思いもあった。
解珍は、いつも腰を降ろす石に、いつものように腰を降ろした。
家は斜面に石垣を組んだところに建ててあり、谷川から水を引いている。
解珍がいるところからは、山の下斜面が見渡せた。
家の前には広場があり、檻がいくつか作ってある。
その中には、猪や鹿など、罠にかかった動物が入れられているが、大抵は二、三日で殺める。
いまはなにもない、横に渡してある二本の棒は、毛皮を張って乾かすためのものだ。
虎の皮の場合は、特に念入りに干す。
祝家荘で戦がある。
それがどういうことか、解珍は考えはじめた。
扈家荘か李家荘を併合しようというのか。
特に李家荘の李応は、祝朝奉を嫌っている。
ただ李応は気の回る男で、方々の役人と交誼を結び、祝朝奉もたやすくは手を出せない。
扈家荘は、以前から祝家とは悪くなかった。
祝家荘が戦をしなければならない理由は、どこにもないはずだった。
それでも、戦の臭いはする。
解宝は、いるのは民兵ではない、と見てとったようだ。
解珍は、五十二歳という自分の年齢を考えた。
充分に生きたと思う。
それは、歳月だけのことではあるけれども、二十五年前は、四十五歳まで生きていることはないだろうと思っていた。
しかし、ほんとうに生きたのか。自分を見つめることから逃れて、ただ歳月を重ねただけではないのか。

(…この続きは本書にてどうぞ)
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