水滸伝 二
  替天の章(たいてんのしょう)

梁山湖に浮かぶ天然の寨には、世直しを志す者たちが集まっていた。
しかし頭領である王倫の堕落により、今は盗賊同然の集団となっている。
宋江の命を受けた林冲は、安道全とともに寨に入りこんだが、そこには幾多の罠が待ち受けていた。
一方、晁蓋は、巨額の税が賄賂として宰相に贈られることを知る。
民の苦しみの結晶であるその荷を奪うための秘策とは。
熱く血がたぎる「北方水滸伝」、第二巻。


替天の章 目次
 天傷の星
 地幽の星
 天暗の星
 天間の星
 地耕の星
 天異の星
 地妖の星
 地魔の星
天傷の星

息が苦しくなってきた。
寿陽の城郭が見えてきたころからである。
息が苦しいのではなく、胸苦しいのかもしれない。
何度も、武松は汗を拭った。
冬に入ったばかりで、汗をかくような季節ではなかった。
やはり、郷里に戻ってくるべきではなかったのかもしれない。
一度は、捨てたのだ。
捨てきれていない、ということなのか。
悶々としている武松を見て、郷里へ帰れと魯智深が言ったのだった。
志に生きようと思った。
宋江と魯智深に出会ったのは、身も心も行くあてを失った自分にとっては、一条の光のような救いだった。
それまでの二年ほどの放浪は、人を殴って歩いていたようなものだ。
そうしていれば、いずれ役人が自分を捕え、首を刎ねるだろうと思っていた。
人並みはずれて、贅膂力が強かった。
自分を捕えようとする者など、軽く打っただけで倒すことができた。
?城で宋江に出会った。
魯智深に引き会わされ、なぜかふた月ほど一緒に旅をすることになった。
そこで魯智深が話したのは、志のことなどではなかった。
人間が、どれだけ悲しく淋しいか、というようなことだった。
だから、ひとりきりで生きてはいけないのだ、と言った。
一年後の同じ日に、同じ場所で会う約束をした。
別れ際に、魯智深は、自分で書き写したらしい冊子を一冊くれた。
旅をしながら、それを読んだ。
いまでも暗誦できるほどに、何度も何度もくり返し読んだ。
時々は、十日二十日と、寺に泊めて貰い、書いてあることについて考えた。
魯智深に出会ってから、それまで避けていた寺が、なぜか親しみのある場所になっていた。
国のありようが、書いてあった。
そういう国にするために、自分がなにをなし得るのか、冊子を書いた人間の苦悶も書いてあった。
人が生まれ、生きていくことの意味も、書いてあった。
そんなふうに、考えてばかりいたわけではない。
時には盗賊に遭い、遂に打ち倒して、ねぐらに溜めてあった銀などを取りあげたりした。
それは、肉を食い、酒を飲み、女を買うことで使い果した。
愉しめはしなかった。たえず、冊子のことが頭から離れなかったのだ。
旅を続ける間に、見えてくるものもあった。 
どこの城郭でも、役人が幅を利かせていた。
関り合うと、わずかでも銭を渡さないかぎり、その城郭にいられないような状態になる。
身を潜めるようにしていても、人々の間に紛れこんで、眼だけ光らせているのだ。
旅人は、特に狙われた。
下手をすると、盗賊の身代りに捕えられかねなかった。
腐っている。
それが、武松に見えてきた、この国の姿だった。
寿陽の城郭の、門の前に立った。
ここを出たのは八年前で、武松は十九歳だった。
胸苦しさは、まだ続いていた。
武松は城郭へ入り、宿を取った。
行商人のように、背に荷を担いでいるが、その中には銀がかなり入っている。
やはり、街道で盗賊を打ちのめし、ねぐらに乗りこんで奪ったものだった。
その銀は、使わずに持ってきた。
外へ出て、新しい着物と袴と帯を買った。
靴は、大原府晋陽の城郭で買い整えていた。
着替えると、いくらかましになった。
宿の主人の態度も、掌を返したように丁重になった。
武松を、憶えてはいないのだろう。
この城郭にいたころは、とにかく暴れ回っていたので、役人さえも近づいてこなかった。
身なりも、派手で目立つものだった。
なぜ、あれほど暴れてばかりいたのか。
自分がここにいる、と叫びたかったのか。
叫んでも無駄なので、自棄になって暴れたのか。
夕刻になると、武松はまた外に出て、料亭で羊の肉と野菜と饅頭を食い、椀三杯の酒を飲んだ。
それ以上は、酒を飲まない。
そう決めていた。
暗くなってから、家があった通りへ行った。
以前のままの家だった。
明りが洩れている。
子供はいるのだろうか、と武松は思った。
子供を見れば、気持の区切りがつくかもしれない。
家を見ても、懐かしいとは感じなかった。
清河から寿陽に移ったのは、織物職人である父が、ここに招かれたからだった。
武松が、まだ六歳のころで、母も生きていた。
はじめは、父はいい織物を織った。
暮しむきも、悪くはなかった。
武松が十歳のころ、母が病で死んだ。
死ぬ前に、兄の武大の嫁を決めた。
着物の縫子をしていた、播金蓮という少女だった。
あの時十四で、三年後に兄に嫁いできた。
兄は、武松より八歳年長である。
武松は、播金蓮が好きだった。
多分、六歳のころ、はじめて会った時から、好きだったのだ。
同じ路地にある小さな家で、母親と弟の三人で暮していた。
母が、兄と婚約させた時は、打ちのめされた。
自分の気持をわかろうとしない母を憎み、死んでしまえと思った。
ほんとうに死んだ時は、また打ちのめされ、自分のせいだと思ったりもした。
播金蓮は、しばしば武松の家にきた。
日ごとに、きれいな女になっていくように思えた。
夜、寝床ではいつも身悶えしていた。
兄が死に、悲しみの中にある播金蓮を自分が慰め、妻にするというようなことを夢想して、眠れなくなったりするのだ。
播金蓮が嫁いできて兄の妻となると、毎日顔を合わせていなければならなくなった。
どうすればいいのか、わからなかった。
家を出た方が楽だと思ったが、まともな仕事は見つかりそうもなかった。
そのころから、父が毀れはじめた。
それは、ほんとうに毀れるという感じで、酒を飲んでいるうちに、気を失ってしまうのだ。
眼も覚束なくなり、織物はできなくなった。
外で気を失った父を担いで帰ってくるのが、武松の仕事になった。
日ごと、父は軽くなっていくようだった。
ある夜、潰れた父を抱いて戻った。
寝床に父の肺を横たえると、武松も眠ろうとした。
喘ぐような声が、かすかに聞えた。
兄たちの部屋だった。
賊か、と武松は思った。
深夜に家に押し入り、全員を縛りあげて金品を運び去る賊が、近所に出没していたのだ。
賊ならば、打ち殺してやる。
そう思い、足音を忍ばせて兄たちの寝室に近づいた。
明りがひとつあり、それが裸で交合している二人を照らし出していた。
とっさに眼を閉じ、そのまま寝ている父のそばに戻ったが、動悸はいつまでも収まらなかった。
武松が酒を飲みはじめたのは、そのころからだった。
父を迎えに行ったついでに、椀に一、二杯を飲む。
それが五、六杯になるのに、それほど時はかからなかった。

(…この続きは本書にてどうぞ)

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