水滸伝 一
  曙光の章(しょこうのしょう)

一二世紀の中国、北宋末期。
重税と暴政のために国は乱れ、民は困窮していた。
その腐敗した政府を倒そうと、立ち上がった者たちがいた。
世直しへの強い志を胸に、漢(おとこ)たちは圧倒的な官軍に挑んでいく。
地位を捨て、愛する者たちを失い、そして自らの命を懸けて闘う。
彼らの熱き生きざまを刻む壮大な物語が、いま幕を開ける。
第九回司馬遼太郎賞を受賞した世紀の傑作。

曙光の章 目次
 天堽の星
 天孤の星
 天罪の星
 天雄の星
 地暴の星
 天微の星
 地囚の星
 地霊の星
天堽の星

頭ひとつ、出ていた。
人の波の中である。
しかもその頭は剃髪し、陽に焼けて赤銅色に輝いていた。
もうひとつ、王進の眼を奪ったものがある。
急いでいるようにも見えないのに、周囲の誰よりも速く歩いているのだ。
さりげなく、ぶつかりそうになった人間を、巨軀がかわす。
鍛練を積んだ身のこなしだと思えた。
馬上の王進と、近づいてくるその男の眼が、束の間、合った。
眼は細いが、そこから放たれてくる光は強い。
尋常ではない強さだった。
声をかけようとして、王進は出かかった言葉を呑みこんだ。
強い眼の光に、邪悪なものがなにも感じられなかったからである。
細い眼の上に、やはり細い眉があり、鼻はかわいいほどに小ぶりだが、口は異様に大きい。
顎も張っていて、頭の鉢より大きそうだった。
そして首は、顎と同じほどの太さがある。
すれ違う時、もう一度声をかけようと思ったが、やはり言葉は呑みこんだ。
後ろに、十騎と四十人が従っている。
一度停まると、座りこんでしまう者もいるだろう。
それほど、みんな疲れきっているはずだ。
普通の兵なら、難なくこなす調練だった。
それが、五百回棒を振らせただけで、息をあげる。
文句を言い出す者さえいるが、それには一切耳を貸さない。
千回棒を振らせ、ひとりひとりと王進自身が立合い、その後十里走らせた。
それで、城内の兵営へ戻るのが精一杯の体力しか残っていないのだ。
特に、騎馬の十人がひどかった。
これでも禁軍兵士で、騎馬の者は将校だった。
名門の子弟が、禁軍に入ってくることが、このところ多くなっていた。
新任の禁軍大将高俅が、それを許すのである。
名門の子弟ならば、官吏にでもなればよさそうなものだが、軍には利権が満ちている。
兵たちの食料だけでも厖大なものだが、ほかに軍服や武具なども常時補給される。
そういうものを取り扱う部署につけば、大金が懐に入るのだ。
名門とは、利権を嗅ぎ分ける血か、と王進は思う。
この宋国の軍は、腐りつつある、とも感じる。
しかし、王進は禁軍武術師範だった。
父の王昇の時から、そうだった。
ひとりひとりの兵の腕をあげるのが、自分の使命だった。
名門の出や、その引きで禁軍に加わった者は、一年足らずの現場の指揮を経験するだけで、銭が動く部署に移る。
そちらに移れば、もう王進とはほとんど関りはなかった。
現場にいる間に、鍛えあげるしかないのだ。
「それでも禁軍兵士か。
帝を守る兵か。
恥を知れ。
次は剣の調練だぞ。
気を抜いた者は、怪我をする。
三日の間、肺を鍛えることに専心せよ」
兵営に戻ると、五十人を並べて、王進はかすかな徒労感に襲われながら言った。
ちょっと見ただけでも、腹を立てている者が何人もいる。
解散させ、王進は師範の部屋に入った。
まだ残っていた林冲が、立ちあがって迎える。
師範代のひとりで、槍や棒の技は非凡なものを持っていた。
槍で立合えば、自分でも勝てるかどうかだ、と王進は思っている。
「教場の方は、どうだったのか、林冲?」
「童貫元帥直属の部隊で、さすがに音をあげる者などもなく」
童貫は、この国の軍の総帥で、戦好きだった。もともと、宦官である。
女に対する欲望はないが、その分の情熱が戦に注ぎこまれているところがあった。
小柄で華奢で、稽古をつけた時のことを思い出すと、武術はいまひとつだが、兵法となると舌を巻くところがある。
直属の部隊は、さすがと思える精鋭を揃えていた。
「余計なことかもしれませんが、王師範」
林冲が、直立したまま言った。
「兵を、城外に連れ出すなと言うのか。
しかし、連中には体力がない。
長く駈けさせるためには、教場というわけにはいかん」
「そのことではありません」
「ならば、もっと余計なことだ、林冲」
王進は、この半年ばかり、上申書をたえず提出していた。
禁軍に加わる者には、武術の試験を課すべきだ、という上申だった。
師範と、十数名の師範代がそれをやれば、難しいことではない。
しかし、反対は多く、却下され続けていた。
利権を目的に入ろうという者の多くは、そこで落ちる。
しかし、それを考えて上申しているわけではなかった。
禁軍兵士は、精強であるべきだった。
そして自分は、師範として精強に鍛えあげる任を負っている。
王進の信念だった。
「師範のお考えは、私が一番よくわかっております。
それがまともに受け取られるのなら、私もその上申に加わりたいほどです」
「よせ、林冲。武術家は、武術のことだけを考えてものを言えばよいのだ。
いずれ、禁軍の首脳もわかってくださるだろう」
「高大将がですか。それとも、童元帥がですか?」
「私の言っていることに、間違いはないのだ。いずれ、誰かが耳を貸してくれる」
「王師範の上申書のことが、軍内で噂になっています。
禁軍は童元帥と高大将でまとまっていますが、地方軍には二人を快く思わない将軍も多くいます」
「だからどうだというのだ」
「武術家は、武術だけ教えればよい、と私は思います」
林冲の言う通りだ、と王進も思う。しかし、それができない性格だった。
師範室付きの小者が、茶を淹れて持ってきた。
こういう小者でさえ、今日の将校たちよりは、ずっと槍が遣える。
「このところ、また槍の腕をあげたのだな、林冲。奥方がよい食事をさせてくださるか」
「食事で腕があがるなら」
林冲が苦笑した。分厚い手で、林冲は茶碗を掴んだ。
掌こそ硬いが、あとはむしろやわらかそうな手だった。
「まだ、道場で稽古をしている者がいるのか?」
「はい。朱仝殿はじめ、騎兵の皆様方が」
「朱仝か。地方の騎兵隊長として出るという話だが、別にくさってもおらんのかな、林冲?」
「くさっているから、剣を振り回しているのかもしれません」
朱仝は、禁軍の一隊を指揮してもいい実力を持っている。
しかし禁軍の指揮官になっていくのも、やはり上の引きがある人間だった。
実力がありながら、賄賂を使ったり、上におもねったりすることが嫌いな者は、大抵地方の小さな部隊の指揮官で生涯を終える。
「今日は、どの門から戻られたのですか、王師範」
「陳橋門から戻ってきたが、あのあたりも人が多くなった。
外城の外も、ずいぷんと民家が増えている」
開封府は、内城の中にさらに宮城があり、内城を囲むように外堀がある。
禁軍府は当然宮城のそばだが、兵営などは外城にある。
内堀の中は店や大きな屋敷が多く、そこで暮すのは豊かな人間と言われていた。
外城にも店は多いが、昔は小さなものばかりだったという。
いまでは、その区別もつけにくくなっていた。
外城の外にも、人家は拡がっていて、そこも含めた全部を開封府と言う。

(…この続きは本書にてどうぞ)

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