武王の門
(上巻)ぶおうのもん
鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇が敷いた建武の新政も、北朝を戴く足利尊氏に追われ、わずか三年で潰えた。
しかし、吉野に逃れて南朝を開いた天皇は、京の奪回を試み、各地で反撃を開始する。
天皇の皇子・懐良は、全権を持つ征夷大将軍として、忽那島の戦を皮切りに、九州征討と統一をめざす。
懐良の胸中にある統一後の壮大な『夢』とは―――。
新しい視点と文体で描く、著者初の歴史長編。
鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇が敷いた建武の新政も、北朝を戴く足利尊氏に追われ、わずか三年で潰えた。
しかし、吉野に逃れて南朝を開いた天皇は、京の奪回を試み、各地で反撃を開始する。
天皇の皇子・懐良は、全権を持つ征夷大将軍として、忽那島の戦を皮切りに、九州征討と統一をめざす。
懐良の胸中にある統一後の壮大な『夢』とは―――。
新しい視点と文体で描く、著者初の歴史長編。
海より来るもの
海は、いつもなにかを孕んでいた。
幼いころから、海が運んでくるものを待ちながら、生きてきた。
恐怖も希望も死も、海が運んできた。
海と闘い、海に育てられて。
義範は、岩から腰をあげ、浜の方へ降りていった。
闇の中でも、径を踏み違うことはない。
何カ所かに、火が見えた。
それは毎夜のことで、今夜にかぎったことではなかった。
堀田小十郎が、寄り添うように付いている。
浜に出る前に、かすかな気配が義範の神経に触れた。
小十郎を手で制し、ひとりで波打際まで歩いた。
砂を踏む音もなく、影がひとつすり寄ってくる。
闇そのものが、囁くような声だった。
葦影。
この男は、明るい昼日中でも、唇をほとんど動かさない喋り方をする。
数歩も離れていると、男が無言で立ち尽くしているようにしか見えない。
耳から二尺に近づいた時、不意に明瞭な言葉が聞こえはじめるのだ。
「沖の伏勢にか」
「二刻ほど前、船溜まりから進発する重明殿の声は聞き申した。
なにやらきびきびとして、戦の前の気負いかとも思いましたが」
「気になって、大浦館の様子を窺がってみたというわけだな」
「誰にも、気取られてはおりませぬ」
義範は、闇の拡がりに眼をやっていた。
海は、人の運も試す。
敗ければ、それまでのもの。
海で生きる男の思い切りだった。
何度も試されながら、自分もここまでやってきた。
「穏やかすぎるな、春の海は」
葦影はなにも答えなかった。
返答の必要の有無は、いつも勝手に判断する男だった。
「口外いたすな。たとえ頼元殿に問い詰められたとしてもだ」
言って、義範は浜を歩きはじめた。
葦影の姿がいつの間にか消え、小十郎が駆け寄ってきて、先触れをするように前に立った。
風が変わってから、どれほどの時が過ぎたのか。
夜明けまであと半刻。
その間にやって来るはずだ。
迫りつつあるものの気配は、すぐ間近でずっと感じ続けている。
風の仕業としか思えぬ砂の盛りあがりの陰には、必ず五、六名の兵が潜んでいた。
盛りあがりのかたちによって、下に落とし穴があるかどうかも判断できる。
浜を歩ききって、物見櫓の下まで来た。
本陣はそこに構えてある。
浜に散開させた兵の数はおよそ二百。
本陣脇に五十。
沖の伏勢に五十。
総勢三百である。
迎える敵は、一千近かった。
...続きは本書でどうぞ
海は、いつもなにかを孕んでいた。
幼いころから、海が運んでくるものを待ちながら、生きてきた。
恐怖も希望も死も、海が運んできた。
海と闘い、海に育てられて。
義範は、岩から腰をあげ、浜の方へ降りていった。
闇の中でも、径を踏み違うことはない。
何カ所かに、火が見えた。
それは毎夜のことで、今夜にかぎったことではなかった。
堀田小十郎が、寄り添うように付いている。
浜に出る前に、かすかな気配が義範の神経に触れた。
小十郎を手で制し、ひとりで波打際まで歩いた。
砂を踏む音もなく、影がひとつすり寄ってくる。
闇そのものが、囁くような声だった。
葦影。
この男は、明るい昼日中でも、唇をほとんど動かさない喋り方をする。
数歩も離れていると、男が無言で立ち尽くしているようにしか見えない。
耳から二尺に近づいた時、不意に明瞭な言葉が聞こえはじめるのだ。
「沖の伏勢にか」
「二刻ほど前、船溜まりから進発する重明殿の声は聞き申した。
なにやらきびきびとして、戦の前の気負いかとも思いましたが」
「気になって、大浦館の様子を窺がってみたというわけだな」
「誰にも、気取られてはおりませぬ」
義範は、闇の拡がりに眼をやっていた。
海は、人の運も試す。
敗ければ、それまでのもの。
海で生きる男の思い切りだった。
何度も試されながら、自分もここまでやってきた。
「穏やかすぎるな、春の海は」
葦影はなにも答えなかった。
返答の必要の有無は、いつも勝手に判断する男だった。
「口外いたすな。たとえ頼元殿に問い詰められたとしてもだ」
言って、義範は浜を歩きはじめた。
葦影の姿がいつの間にか消え、小十郎が駆け寄ってきて、先触れをするように前に立った。
風が変わってから、どれほどの時が過ぎたのか。
夜明けまであと半刻。
その間にやって来るはずだ。
迫りつつあるものの気配は、すぐ間近でずっと感じ続けている。
風の仕業としか思えぬ砂の盛りあがりの陰には、必ず五、六名の兵が潜んでいた。
盛りあがりのかたちによって、下に落とし穴があるかどうかも判断できる。
浜を歩ききって、物見櫓の下まで来た。
本陣はそこに構えてある。
浜に散開させた兵の数はおよそ二百。
本陣脇に五十。
沖の伏勢に五十。
総勢三百である。
迎える敵は、一千近かった。
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