史記 武帝紀 3
中国・前漢の時代。
武帝・劉徹の下、奴僕同然の身から大将軍へと昇りつめた衛青の活躍により、漢軍は河南の地に跋扈する匈奴を放逐する。
さらに、その甥にあたる若き霍去病の猛攻で、匈奴に壊滅的な打擊を与えるのだった。
一方、虎視眈々と反攻の期を待つ、匈奴の武将・頭屠。
漢飛将軍と称えられながら、悲運に抗いきれぬ李広。
英傑去りしとき、新たなる武才の輝きが増す―――。
目次
軍麾の日
旄節
九天の業
天籍は遠く
春蕉
中国・前漢の時代。
武帝・劉徹の下、奴僕同然の身から大将軍へと昇りつめた衛青の活躍により、漢軍は河南の地に跋扈する匈奴を放逐する。
さらに、その甥にあたる若き霍去病の猛攻で、匈奴に壊滅的な打擊を与えるのだった。
一方、虎視眈々と反攻の期を待つ、匈奴の武将・頭屠。
漢飛将軍と称えられながら、悲運に抗いきれぬ李広。
英傑去りしとき、新たなる武才の輝きが増す―――。
目次
軍麾の日
旄節
九天の業
天籍は遠く
春蕉
軍麾の日
広い屋敷に住みたいと、一度も考えたことはなかった。
将軍らしい屋敷に住めと、帝に何度か言われたが、大した意味はないと思い、辞退した。
それについて、廷臣の評判は悪かった。
一部の将軍たちも、あまり嬉しそうな顔をしない。
自分たちが住む屋敷が大きく、使用人も多いことに、気が咎めてしまうのだろう。
李広が長安で住んでいるのは、せいぜい上級の将校が与えられる程度のものである。
李家は、軍門だった。
従弟の李蔡は、軍功はわずかだが、認められて官を昇り、今年は番係に代って御史大夫になる、という噂まである。
丞相の公孫弘に気に入られている、という話を聞いた。
すでに戦塵の気配は洗い流した男で、文官としての栄達を求めているのだろう。
李広は、郡の太守もつとめてきたが、一度たりと、具足を脱ぎたいと考えたことがなかった。
これまでに、何十度の戦に出ただろうか。
できるかぎりの闘いをしてきたが、軍功を高く評価されることはなかった。
どこまで、攻めこんだか。
匈奴の首をいくつ奪ったか。
廷臣たちは、みんなそれを問題にした。
匈奴を、攻めこませなかった。
漢の民が、略奪を受けることを防いだ。
それは、攻めこむ戦より評価は低い。
特に、いまの帝になってからは、そうだ。
帝が望んでいるのは、、守る戦いではなく、攻める闘いだった。
それでも、軍の中では評価されている。
もっと評価しているのは敵の匈奴で、漢飛将軍という名を貰い、李広が守備につくと、その地方を攻めることを避けるようになったのだ。
歴戦の勇将、とだけは誰もが呼んでいた。
それだけでいい、と李広は思っている。
衛青のように、騎馬隊を組織して闘う、という発想が、李広にはできなかったのだ。
騎馬の戦いは、匈奴のもの。
思いこみのようなものとして、その考えがあった。
衛青が望んで騎馬隊を組織した時も、守備の戦の援護のためとしか考えなかった。
帝が、なにを望んでいるか。
衛青の思いの中には、常にそれがあったのだろう。
漢という国のために、どういう戦ができるかだけを考え続けてきた李広とは、同じようであってどこか違う。
昨年は、衛青の武将として闘った。
守りの戦が悪いとは、思ったことがない。
守りがあっての、攻めではないのか、といつも思う。
後方の守りが、負傷した衛青を救ったのではないのか。
言っても、仕方がないことだった。
それに、衛青の軍略の才を、自分とは異質のものとして、李広は認めていた。
衛青の甥の霍去病についても、その才は李広を驚かせた。
自分の戦いが、古いとは思わない。
ただ、匈奴の地に攻めこむ、という戦いでないことは、李広も認めていた。
攻めるためには、どうしても騎馬隊の速さが要る。
それを、衛青は作りあげたのだ。
(…この続きは本書にてどうぞ)
広い屋敷に住みたいと、一度も考えたことはなかった。
将軍らしい屋敷に住めと、帝に何度か言われたが、大した意味はないと思い、辞退した。
それについて、廷臣の評判は悪かった。
一部の将軍たちも、あまり嬉しそうな顔をしない。
自分たちが住む屋敷が大きく、使用人も多いことに、気が咎めてしまうのだろう。
李広が長安で住んでいるのは、せいぜい上級の将校が与えられる程度のものである。
李家は、軍門だった。
従弟の李蔡は、軍功はわずかだが、認められて官を昇り、今年は番係に代って御史大夫になる、という噂まである。
丞相の公孫弘に気に入られている、という話を聞いた。
すでに戦塵の気配は洗い流した男で、文官としての栄達を求めているのだろう。
李広は、郡の太守もつとめてきたが、一度たりと、具足を脱ぎたいと考えたことがなかった。
これまでに、何十度の戦に出ただろうか。
できるかぎりの闘いをしてきたが、軍功を高く評価されることはなかった。
どこまで、攻めこんだか。
匈奴の首をいくつ奪ったか。
廷臣たちは、みんなそれを問題にした。
匈奴を、攻めこませなかった。
漢の民が、略奪を受けることを防いだ。
それは、攻めこむ戦より評価は低い。
特に、いまの帝になってからは、そうだ。
帝が望んでいるのは、、守る戦いではなく、攻める闘いだった。
それでも、軍の中では評価されている。
もっと評価しているのは敵の匈奴で、漢飛将軍という名を貰い、李広が守備につくと、その地方を攻めることを避けるようになったのだ。
歴戦の勇将、とだけは誰もが呼んでいた。
それだけでいい、と李広は思っている。
衛青のように、騎馬隊を組織して闘う、という発想が、李広にはできなかったのだ。
騎馬の戦いは、匈奴のもの。
思いこみのようなものとして、その考えがあった。
衛青が望んで騎馬隊を組織した時も、守備の戦の援護のためとしか考えなかった。
帝が、なにを望んでいるか。
衛青の思いの中には、常にそれがあったのだろう。
漢という国のために、どういう戦ができるかだけを考え続けてきた李広とは、同じようであってどこか違う。
昨年は、衛青の武将として闘った。
守りの戦が悪いとは、思ったことがない。
守りがあっての、攻めではないのか、といつも思う。
後方の守りが、負傷した衛青を救ったのではないのか。
言っても、仕方がないことだった。
それに、衛青の軍略の才を、自分とは異質のものとして、李広は認めていた。
衛青の甥の霍去病についても、その才は李広を驚かせた。
自分の戦いが、古いとは思わない。
ただ、匈奴の地に攻めこむ、という戦いでないことは、李広も認めていた。
攻めるためには、どうしても騎馬隊の速さが要る。
それを、衛青は作りあげたのだ。
(…この続きは本書にてどうぞ)