コースアゲイン

<単行本> 刊行
<文庫本>2004年 9月25日 初版発行

風の中の少女

船内の気圧計が異常を示していた。
しかし、まだ強風域には入っていない。
穏やかとは言えないものの、危険を感じるほどの海ではなかった。
そして、魚はまだいるのだ。
この二時間で、一メートル近い鰆を一本と、鰤を三本、それから鯖を十本近くあげていた。
鮪が来る、という予感が私にはあった。
そんな予感は当てになりはしないが、無視しても釣りにはならない。
船速を七ノットほどにあげ、私はツナタワーに攀じ登った。
船は船上建造物のないオープンタイプと呼ばれるもので、キャビンやバース、それにトイレやギャレーも船体の前半分に収められていた。
操縦席は中央で、航海計器などもそこに備えてあるが、視界を確保するために充分な高さがあるとは言えない。
それでアルミ製の櫓を組み、その上でも操船できるようになっているのだ。
ツナタワーの上にあるのは、スロットルとクラッチのレバー、両舷エンジンの回転計、コンパスと舵輪という、必要最小限のものだった。
そこに登れば、揺れは大きいが、フライブリッジ艇よりずっと視界はよかった。
デッドスローが六百回転で、二百回転あげるとほぼ船速が二ノット増す。
高回転域での増速はもっと大きいが、千二百回転まではそんなものだった。
トミーが、気象ファックスを口にくわえ、ツナタワーの梯子を登ってきた。
「大した低気圧じゃないけど、前線を突っ切ることになりますぜ」
私は、気象ファックスの等圧線をしばらく見ていた。
私がむかおうとしている港までは、かなり強い風を受けながら走ることになる。
「あと三十分だ、トミー。その三十分を後悔しながら、えんえんと走ることになるかもしれんがね」
時化た海では、スピードはあげられない。
おまけにむかい風となると、眼の前の島が二時間経っても近づいてくることがなく、進んでいるのかどうか疑いたくなってくるのだ。
しかし、魚はいる。
鯖の群れがいたので、それを捕食する鮪もいる可能性が高い。
「まあ、あと三十分で、もう一回ぐらいヒットする、と俺も思いますが」
船速を七ノットにあげた時点で、私が狙っているのが鮪だと、トミーも理解しているはずだった。
海の経験はあまりないが、釣りは大好きというクルーである。
今年でちょうど二十歳になり、あと四年は大学にいるつもりだと言っていた。
クルーのアルバイトは、両方に好都合なのだ。
風が出てきて、海面が波立ってきた。
ヒットしたのは、ちょうど三十分経ったころだった。
リールのクリックが鳴り、それに飛びつくトミーの姿が見えた。
私は、ツナタワーの梯子を、滑るようにして降りた。
百メートルほどラインは出してあったが、それは海面を走るのではなく、下にむかっていた。
下にむかって潜るのは、鮪の特徴である。
カジキなら、海面を走る。
「トミー、デッドスローだ」
私は、ロッドを抱えこんで叫んだ。
リールのドラッグを少し緩める。
あまり強く締めていると、ラインがもたないからだ。
十分ほど、やり取りをした。
波が、さらに高くなっている。
完全に強風域に入ったようだ。
時々船ががぶられていて、震動で躰が浮きそうになった。
私は、ドラッグを締めつけた。
魚の動きが止まり、引き合うという状態になった。
もう少し魚を疲れさせた方がいいのはわかっていたが、海況がそれを許さなくなっている。
私は、徐々にラインを巻き取っていった。
ラインが切れるかどうか、きわどいところだ。
魚はまだ元気で、巻き取るには相当の力が必要だった。
ラインが切れたら、魚は鉤を口にかけたままになる。
ステンレスだとそのまま死んでしまうので、鉄製の鉤を使っていた。
それだと、一週間ほどで錆び、ぽろりと魚の口から落ちると言われている。
全身に汗が噴き出してきた。
息もあがってくる。
眼に入る汗を、トミーが汚れたウエスで、拭う。それに文句も言っていられなかった。
この力であまり時間をかけると、ナイロンモノフィラメントのラインは、伸びきって切れてしまう。
ようやく魚が海面近くまであがってきた時、私の肩から腕にかけては、痺れたように感覚がなくなっていた。
「やっぱり鮪だ。二十キロ以上はありそうですよ」
ギャフを構えたトミーが、暢気な口調で言った。
もうひと踏ん張りだった。
私はロッドを立て、声をあげながらラインを巻いた。
ルアーがついたリーダーをトミーが掴み、素速くギャフをかけると、呆気ないほど簡単に船上に鮪をあげた。
トミーは軍手をした手で鮪を押さえこみ、ベルトにつけたケースからナイフを抜くと、鰓の横を刺した。
尾のところにも、切れ目を入れる。
これで魚の血は抜けるのだ。
血で赤く染った後部甲板(アフトデッキ)を、海水ウォッシャーでトミーがきれいにした。
その時私は、もう舵輪に取りついていた。
波高は二メートルから三メートルになっている。

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