風の中の女 かぜのなかのおんな

インテリジェント・ビルのインテリアの仕事を成功させ、独立した美有。
ラブホテルの内装なども引き受け、順調に仕事は増えている。
しかし工事に不可解なトラブルが起きはじめる。
心配した矢先、アシスタントの女性が交通事故を装って殺される。
関島と姓が変わったあの野木路子と、巨大ホテルグループが絡んでいるらしい。
また美有は事件の中心に巻き込まれてゆく。

<単行本> 刊行
<文庫本>2004年 9月25日 初版発行

ビートルズ

窓が開いた。
きのうまで、力まかせに引かなければ、ビクともしなかった窓だ。
「ノンコ、この窓」
「ああ、午前中に大家さんが来て、直してくれたんですよ」
「そんなに簡単に直るものだったの?」
「万力で、ちょっと上の縁をあげたんです。隙間に鉄板を挟んで、落ちてこないようにして」
確かに、サッシ枠の上の端に小さな隙間があり、なにか挟みこんである。
安普請だった。
二階の音は、かなり派手に響く。
もっとも二間をぶち抜いて、エアロビクスの教室に使われているのだ。
「仕事、終ったんですか?」
「八百屋の方?」
「ええ。面倒だと言ってたじゃないですか」
「なんとかね。あたしが面倒なんじゃなく、工事の連中が面倒なんだよ。八百屋が、野田フルーツになるんだからね。ちょっとやそっとの改装じゃ駄目」
「じゃ、綱島のラブホテル、とりかかります?」
「明日からだね。今夜奢るぞ、ノンコ。駅前で、スキ焼きでも食べようよ」
「社長、冴えてる」
典子が、手を叩いた。
デザイン専門学校を卒業して、私の事務所に入り、ようやく半年が経った。
鹿島デザイン研究所の、はじめての正式社員だ。
「ラブホテル、社長どうなってるかわかります?」
「舐めるなよ、ノンコ。あんたぐらいの歳には、これで鳴らしたもんなんだから」
「ほんとかな」
「いまにわかる。あたしのデザインを見ればね」
ホテルは、やったことがある。
それもシティホテルのスウィートルームだ。
カッシーナの椅子をメインにして、それに合わせた格調の高い部屋を作った。
あんなインテリアの仕事は、今の私の事務所に来るはずもなかった。
この二年と何カ月の間、小さな商店や、個人の家のインテリアばかりを、細々とやってきた。
マンションの部屋など、引越して来る前に頼まれたりするのだ。
外科病院というのもあった。
病院は機能が第一で、機能を生かすためのインテリアを考えなければならない。
おかげで、私は医療器具に関しては、かなり詳しくなった。
ラブホテルのインテリアなど、最も大きな仕事に入った。
典子が入社してから、ひとりでやるより仕事の規模をかなり拡げることができた。
募集広告を一度だけ出した。
何人かが面接にやってきたが、事務所の様子を見ると、そそくさと逃げる準備に入った。
平然としていたのは、典子だけだ。
こんな小さな事務所で、あなたと大して歳の違わない社長でもいいの。
私がそう訊くと、大きくする愉しみがあります、と言って白い歯を見せた。
私はこの小肥りのコロコロした女の子を、すぐ好きになった。
自由が丘の駅の近くに事務所を借りたのは、ちょうど二年前になる。
清水の舞台から飛び降りるような気持だった。
貯金は全部はたいた。
それでは到底足りず、福井の両親から百万ほどの借金もした。
自分のアパートで仕事をするのと、事務所を持つのとでは、仕事の入り方や質がかなり違った。
アパートで細々とやっていれば、どうしても内職という感じになる。
鹿島デザイン研究所の開設披露などはやらなかった。
ひとりで、デスクがひとつしかない事務所で、自分の再出発に乾杯しただけだ。
「ちょっと部屋へ帰るからね、ノンコ。駅前で待ち合わせしよう」
「何時ですか?」
「六時半」
「がっちりしてるんだから。仕事がなくても、電話番はさせようって気ですね」
「電話番も立派な仕事」
なりふり構わず、働いた。
死物狂いだったと言ってもいいだろう。
気づくと、両親に借金を返せるほどのお金が口座にあった。
その後の仕事を考えると、人をひとり雇ってもいいほどにもなっていたのだ。
贅沢などしなかった。
時々バーゲンのワンピースを買うくらいで、ほとんどジーンズで通していた。
部屋も、ずっと移っていない。
相変らずの六畳間だ。
山積みにしてあったインテリアの資料を、ほとんど事務所に運びこんだので、以前よりかなり広い感じにはなっている。
事務所から歩いて十分というところだが、私は自転車を使っていた。
「六時半、スキ焼きですからね。お肉のお代り、するかもしれませんよ」
典子の声が背中に飛んできた。
自転車に乗った。
二年半前は、マセラッティ・ビドルボ・スパイダーいう、真赤なイタリアの高級車に乗っていた。
その前は、メルセデスを運転したこともある。
ブルガリの時計にプラチナのブレスレット。
それも、遠い昔のことだ。
漕ぐと、キーキーと耳障りな音をたてる、古い自転車がいまの私にはふさわしい。
ふさわしいものに乗っているというのは、決して晴れがましくはないが、胸を張ってもいいのだ、という気分にはなる。
アパートが見えてきた。
二十七歳。
ふと思った。
気がついたら、二十七になっていた。
年齢など、どうでもいいようなものだ。
私は自転車を降り、勢いよく鉄製の階段を駈けあがった。

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