雨は心だけ濡らす
あめはこころだけぬらす
デザイン事務所に勤めるインテリア・デザイナー、美有のもとに、思いがけない大きな仕事が舞い込む。
イタリア製のスポーツカーに乗って現れたのは、憧れの建築家、野木路子。
インテリジェント・ビルのインテリアをすべてまかすという依頼だった。
仕事を始めるとなぜか作業の妨害が出始める。
野木の工事の依頼主の後ろには、何か隠されているのでは、と美有は感じる。
デザイン事務所に勤めるインテリア・デザイナー、美有のもとに、思いがけない大きな仕事が舞い込む。
イタリア製のスポーツカーに乗って現れたのは、憧れの建築家、野木路子。
インテリジェント・ビルのインテリアをすべてまかすという依頼だった。
仕事を始めるとなぜか作業の妨害が出始める。
野木の工事の依頼主の後ろには、何か隠されているのでは、と美有は感じる。
<単行本> 刊行
<文庫本>2004年 8月25日 初版発行
トンネル
野木路子の事務所は、広尾のマンションの一室にあった。
シンプルでなにもない部屋の一室に、木製の大きなデスクがひとつだけ置いてある。
壁も力ーテンも、オフホワイトの淡い色調だった。
「設計屋の事務所って、誰も思わないのよ。製図デスクひとつないんだから」
「あの、事務所の方たちは?」
「隣りの部屋。むこうは、ごった返してるわ」
「ここに伺ってもよかったんですか?」
どう見ても、客を応対する部屋ではなかった。
応接セットすらないのだ。
私は、校長に呼びつけられた不良生徒のように、デスクの前に突っ立っているしかなかった。
「ほんとうは、ここは事務所でもないのよね。お客様と会う時は、いつも隣りよ」
すみません、と言う筋合いでもなかった。
電話で、この部屋へ訪ねてくるように言われたのだ。
「あなたがまとめた腹案だけ、見せて貰おうかしら」
私は、抱えてきた書類袋から、ワープロで打った一枚の紙だけを抜き出した。
腹案と言われても、まとめるとたった一枚の紙にしかならなかったのだ。
もともと、設計の中にインテリアの指定まである。
デザイン事務所がやる仕事は、ほんの細部しかなかった。
それでも、野木路子が一番若い所員と言ってこなければ、私が仕事をすることにはならなかっただろう。
名前が売れはじめた建築家のところへ、私が行くことになった理由はそれだけだと、きのう現場から戻った時に所長から聞かされた。
若いというだけの理由。
実力が買われたわけではなかった。
なにかの理由で、野木路子は若さを必要としていただけなのだ。
黒と白のスーツ姿。相変らず、ブラウスなど着ていない。
肌に直接触れるスーツは、すぐに駄目になってしまうだろう。
路子は、私を立たせたまま、紙片に眼を通し続けた。
きりりとアップにした髪は、解けばどれほど長いのか、見当もつかなかった。
ほつれた髪は、一本もないように見える。
「立原くんと、仕事の折り合いはついたの?」
「きのう、話合いました。ルノー5ターボ2の中で」
「じゃ、口説かれたりはしなかったのね」
「どうしてわかります?」
「あの人、車の中じゃ女の子より運転に夢中なの。昔からそうよ」
「結婚してるのに、口説いたりするかしら」
「結婚してるから、口説くのよ。男ってそういうものだわ。もう結婚という代価を払う必要はない、と思いこんでるのね」
「経験あるんですか?」
「一週間で、五人の男が口説いてきたことがあった。そのうち四人は結婚してたわ」
「立原さんに口説かれたことですよ」
「それなら、時期を失ったわね、彼」
「かわいそう」
「男って、ほんとは不器用なものよ」
「野木さんだって、嫌いじゃないんでしょ?」
「友だちね、いまは。ジャスト・ア・フレンド」
言って路子は、紙片を持って立ちあがった。
「やり直してきて」
「えっ?」
「これじゃ、駄目よ。壁に描いてあるのは、道路。どこまでも続いている道路よ。木立の中から出た道路じゃ、ありふれすぎてるわ。頭の上には、木の枝があるわけ?」
「道路のイメージが、うまく浮かばないんです」
「それは、あなたのイメージでいいの。あなたの道路でね」
「わかりました」
「夕方までにね」
頷くしかなかった。
店が木立の中で、そこからなにもない平原に道路がのびている。
ひと晩かかって考え出したものだった。
それしか浮かばなかった、と言った方がいいだろう。
天井は木の枝と空。
...続きは本書でどうぞ
野木路子の事務所は、広尾のマンションの一室にあった。
シンプルでなにもない部屋の一室に、木製の大きなデスクがひとつだけ置いてある。
壁も力ーテンも、オフホワイトの淡い色調だった。
「設計屋の事務所って、誰も思わないのよ。製図デスクひとつないんだから」
「あの、事務所の方たちは?」
「隣りの部屋。むこうは、ごった返してるわ」
「ここに伺ってもよかったんですか?」
どう見ても、客を応対する部屋ではなかった。
応接セットすらないのだ。
私は、校長に呼びつけられた不良生徒のように、デスクの前に突っ立っているしかなかった。
「ほんとうは、ここは事務所でもないのよね。お客様と会う時は、いつも隣りよ」
すみません、と言う筋合いでもなかった。
電話で、この部屋へ訪ねてくるように言われたのだ。
「あなたがまとめた腹案だけ、見せて貰おうかしら」
私は、抱えてきた書類袋から、ワープロで打った一枚の紙だけを抜き出した。
腹案と言われても、まとめるとたった一枚の紙にしかならなかったのだ。
もともと、設計の中にインテリアの指定まである。
デザイン事務所がやる仕事は、ほんの細部しかなかった。
それでも、野木路子が一番若い所員と言ってこなければ、私が仕事をすることにはならなかっただろう。
名前が売れはじめた建築家のところへ、私が行くことになった理由はそれだけだと、きのう現場から戻った時に所長から聞かされた。
若いというだけの理由。
実力が買われたわけではなかった。
なにかの理由で、野木路子は若さを必要としていただけなのだ。
黒と白のスーツ姿。相変らず、ブラウスなど着ていない。
肌に直接触れるスーツは、すぐに駄目になってしまうだろう。
路子は、私を立たせたまま、紙片に眼を通し続けた。
きりりとアップにした髪は、解けばどれほど長いのか、見当もつかなかった。
ほつれた髪は、一本もないように見える。
「立原くんと、仕事の折り合いはついたの?」
「きのう、話合いました。ルノー5ターボ2の中で」
「じゃ、口説かれたりはしなかったのね」
「どうしてわかります?」
「あの人、車の中じゃ女の子より運転に夢中なの。昔からそうよ」
「結婚してるのに、口説いたりするかしら」
「結婚してるから、口説くのよ。男ってそういうものだわ。もう結婚という代価を払う必要はない、と思いこんでるのね」
「経験あるんですか?」
「一週間で、五人の男が口説いてきたことがあった。そのうち四人は結婚してたわ」
「立原さんに口説かれたことですよ」
「それなら、時期を失ったわね、彼」
「かわいそう」
「男って、ほんとは不器用なものよ」
「野木さんだって、嫌いじゃないんでしょ?」
「友だちね、いまは。ジャスト・ア・フレンド」
言って路子は、紙片を持って立ちあがった。
「やり直してきて」
「えっ?」
「これじゃ、駄目よ。壁に描いてあるのは、道路。どこまでも続いている道路よ。木立の中から出た道路じゃ、ありふれすぎてるわ。頭の上には、木の枝があるわけ?」
「道路のイメージが、うまく浮かばないんです」
「それは、あなたのイメージでいいの。あなたの道路でね」
「わかりました」
「夕方までにね」
頷くしかなかった。
店が木立の中で、そこからなにもない平原に道路がのびている。
ひと晩かかって考え出したものだった。
それしか浮かばなかった、と言った方がいいだろう。
天井は木の枝と空。
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