林蔵の貌 下  りんぞうのかお

反幕勢力、南下するロシア、莫大な利権を狙う海商たちの錯綜する思惑が極北の蝦夷地に集結する。
ある密約を帯びた間宮林蔵は諸国を奔走し、権力者たちの野望うずまく中へ身を投じてゆく。
それぞれの命運を背負った男たちの人生と、黎明期の日本を描く迫真の時代小説。

<単行本>1994年 6月 刊行
<文庫本>1996年11月25日 初版発行

狼煙

ネムロから、高田屋の千石船に乗った。
赤彦、青彦は、成犬らしい落ち着きを見せ、あまり船上では走り回らず、林蔵に命じられた場所でじっとしていた。
時々、林蔵の姿を眼で追うだけである。
ネムロには千五百石船もいたが、千石船の方が動きがいい、と林蔵は見たのだった。
高田屋嘉兵衛も同乗している。
高田屋も、自分の船の中では、千石船が一番動きがいいと思っているようだった。
「さすが、北の海は夏とはいえ寒いものでございますな。冬の寒さなど、想像もつきません」
高田屋は、しばしば林蔵と喋りたがった。
高田屋の水夫定次郎の、カラフトにおける小さな品物の交換を松前奉行に通報して捕縛させ、さらにカラフトに捨次を追って屍体を松前まで運んできた林蔵の動きを、高田屋は知悉しているはずだった。
隠密というより、かつて松前奉行であった勘定奉行村垣定行の意を受けている、と思っているだろう。
村垣定行が、お庭番の家柄から出ていることまでは、高田屋も知りはしないだろう。
高田屋は、村垣定行に多額の賂を贈り、蝦夷地御用商人として、幕府にも運上金を差し出しているはずだ。
それが馬鹿にならない力を持っていることは、よく知っている。
幕府が、すぐに高田屋を潰す動きはするはずがない、と思っている。
高田屋が慌てはじめたのは、このところ次々と高田屋の船が遭難したからだった。
ロシア軍艦らしい船に砲撃を受けているところを、ほかの高田屋の船が目撃し、大騒ぎになった。
至急調査するように、という村垣定行の指示も林蔵のもとに届いた。
いままでに、千五百石船が三艘、千石船が二艘沈められている。
いまのところ、生き残った水夫も見つかっていない。
船が沈められるというのは、高田屋にとっては深刻なことだった。
水夫たちは、いくら金を積んでも、蝦夷地には行きたがらなくなる。
そうなれば、蝦夷地御用の看板を、ほかの回船問屋に奪われかねなかった。
「ロシアがそんなことをするとは、私にはどうしても思えないのでございますがね、間宮様」
「俺にはわからん。船が沈められているという話を聞いたのも、最近だからな」
「ものごとには、損と得というものがございます。手前どもの船を沈めることで、ロシアにどれほどの得がございましょう。損の方がずっと大きいのでございますよ」
「それは、ロシアと密貿易をしている、と言っているように聞こえるぞ、高田屋」

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