林蔵の貌 上  りんぞうのかお

激動の予兆をはらむ江戸・文化年間、越前の船頭・伝兵衛は謎の武士・野比秀麿を乗せ蝦夷地へと櫓を漕ぐ。
そこに待っていたのは測量家の間宮林蔵。
彼らの行ったロシア艦との秘密交渉は、徳川幕府とそれに対抗する朝廷・水戸・島津の連合勢力との抗争の口火となった──
壮大な北の海にひろがる男たちの野望。

<単行本>1994年 6月 刊行
<文庫本>1996年11月25日 初版発行

ロシア軍艦

東へそれて行けと言われた。
岸に近ずくなとも言われた。
潮の流れが、東と北に分かれる。
北へ行く方が強いが、東へそれろ。
岸に近づきすぎると、松前藩か津軽藩の船手に捕えられる。
伝兵衛の頭にあるのは、それだけだった。
東にむかって、櫓を漕ぎ続けていた。
北へ流れる潮に逆らっていると思ったのは、ひと時だった。
やがて、順潮になった。
右に津軽が、左に蝦夷地が見えている。
どこかの船手が追ってくるという気配はなかった。
潮に乗ったまま、漕いでいてもいけない。
外海に出たら、舳先を北に転じなければならないのだ。
そうしないと、今度は東から南へ流される。
伝兵衛は、額から汗を滴らせていた。
陽は西に傾きかけているが、まだ暑い。
ようやく、海峡を抜けた。
伝兵衛は、また渾身の櫓を遣った。
それほど強い潮流ではない。
はじめて漕ぐ海であることが、伝兵衛を緊張させている。
すぐに、潮流を抜けた。
あとは、うねりと闘えばいいだけである。
外海のうねりはさすがに大きく、舟は持ちあげられては沈んでいく。
舟底が波を打ち、飛沫があがった。
「陽が暮れるな、伝兵衛」
腕を組んで、じっと座っていた野比が言った。
野比というのは呼び名で、ほんとうはなんと言うのか、伝兵衛は知らない。
「もう、北へむかっております。御懸念は無用でございます」
「灯はあるのかな、蝦夷地にも」
「わかりません。あっしも、見るのははじめてでございまして」
「それにしても、よく漕ぎ続けられるものだ。もう丸一日になるではないか」
「その気になれば、二日でも三日でも」
深浦という港の近くの浜から出たのが、陽が落ちてすぐだった。
夜の間、北へむかって漕いだ。
陽が昇り、高くなってから、舳先を東にむけた。
海峡を抜け外海に出た時は、もう陽が傾いていたのだ。
長いという気はしなかった。
途中で握り飯を食い、水も飲んだ。
流れに乗って漕いでいれば、さほど疲れもしない。
冬は人が暮らせないほど寒いところだというが、いまそれを感じさせるのは、潮流からそれて不意に感じた。
海水の冷たさだけである。
確かに、水は冷たくなった
水に触れなくても、艫に立って櫓を漕いでいるだけで、それはわかる。

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