炎天 えんてん
  神尾シリーズⅢ

元一等航海士・神尾修二が法律事務所の調査員を始めて一年。
奇妙な依頼が舞い込んだ。
メキシコで行方不明の甲板長・三宅を探して欲しいと。
三宅は船乗り人生を総決算し、死ぬ気で何かやろうとしている。
彼を追って神尾はメキシコまで飛んだ。
再会の喜びも束の間、彼らはある組織の死闘に巻き込まれてゆく。

<単行本>1992年10月 刊行
<文庫本>1995年 4月25日 初版発行

第一章

まずい、としか思えなかった。
四時間かけて牛の尻尾を煮こみ、三時間かけて玉ネギを炒め、かなりの量のワインと香料を入れたのに、どういうわけか酸味の強いソースにしかならない。
ワインのせいだろうと思えるのだが、いくら時間をかけてソースを煮つめても、酸味は消えないのだった。
自分が台所で料理をする姿など、船に乗っていたころは想像さえしたことさえなかった。
陸でひとりで暮らすようになって、サラダや目玉焼きやオムレツなど、簡単な料理を手早く作れるようにはなった。
なにしろ、私の住いの下は、家庭料理風のレストランなのだ。
大家の水町三佐子が、ひとりでやっている。
商売家はあまりなく、趣味という感じが強かった。
なんとなく、人にものを食べさせるのが好きなのだろう、と私は思っていた。
つまり、作るものに愛情がある。
まずいはずはなかった。
時間と手間をかけた料理をしようと思い立ったのに、きっかけらしいきっかけはなかった。
私にボクシングを教えてくれた、長坂という男が、引退して食べ物屋を始めた。
私鉄沿線の、駅のそばの小さな店で、私のところから車で十分ほどだ。
長坂の作る料理がうまかった。
二十九歳と十一カ月まで、体重を増やさないために、まともな食い物を胃に入れたことがなかったのではないか、と思える男が作った料理が、下のレストランほどでないにしろ、なかなかのものなのだ。
私にも作れるだろう、と思わせるものが長坂にはあった。
開店の第一号のお客が私だったのだが、スパゲティをうまく皿に盛ることもできず、二、三本皿の外に垂れさがったものを出したのだ。
そのスパゲティも意外にまずくはなかったが、パンチの打ち方しか知らない男にできて、私にできないはずはないと思った。
私は、鍋の中のソースを掻き回した。
はじめから、オックステイルのシチューなどに挑戦したのが、よくなかったのかもしれない。
それでも、はじめたのだ。
肉汁と玉ネギを主成分とするソースは、すでに鍋の三分の一ほどまでに煮詰っている。
それでも、酸味は消えていかない。
作り方を訊けば、水町三佐子は熱心に教えてくれるだろう。
しかしそれなら、下へ行ってビーフシチューを食った方がましだった。
長坂に訊こうとも思わない。
長坂は一度だけ、ウェルター級の日本チャンピョンになった。
チャンピョンであった期間は、わずかひと月だった。
防衛戦に破れたのではなく、タイトルを返上してしまったのだ。
チャンピョンになることで、長坂はボクサーとしては完全に燃え尽きたのだろう。
私が、長坂のいたジムに通っていたのは、タイトルを返上するまでの数カ月だった。
チャイムが鳴った。

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