群青 ぐんじょう
  神尾シリーズⅠ

一等航海士・神尾修二は、友人の外山が殺されたことを航海中に知る。
神尾の婚約者を自称する和子をめぐるトラブルが原因という。
婚約した覚えがない彼にとっては、不可解な事件だった。
職を辞し、横浜に上陸した神尾に、さまざまな男女が接触してくる。
そして不可解な暴力が彼を襲う───
男の怒り、悲しみを鮮烈に描く新シリーズ第一作。

<単行本>1991年 5月 刊行
<文庫本>1994年 4月25日 初版発行

第一章

部屋の中に煙がたちこめていた。
続けざまに三本、煙草を喫ったのだ。
四本目に火をつけようかどうか、私は迷っていた。
そろそろ通船の時間だった。
ベッドに寝そべり、手を頭の後ろにやった。
パイプが剥き出しになって天井を走っている。
換気孔のダクトのカバーは、ネジが緩んでいて時化の時はカタカタと音をたてる。
いまは静かだった。
私は、天井の錆を探した。
一ヶ所塗装が剥げたところがあり、そこから赤い錆が少しずつ拡がっていた。
八ヶ月、ベッドからそれを見続けていたが、ようやく小指の爪ぐらいに育ったところだ。
それはいかにも育ったという感じで、私は時々自分の心の錆でも見ているような気分に襲われた。
その錆も、やがて塗装で隠されるのだろう。
かすかな凹凸としてしか残らない。
しかし、一度は錆びたのだ。
通船のホーンが聞えた。
私はベッドから降り、スーツケースを抱えて部屋を出た。
甲板に、甲板長の三宅がひとりで立っている。
霧のような雨が降っていた。
「傘はないのかね、一等航海士?」
私は首を振った。
傘は陸上のものだ。
船の上では役に立たない。
「まったく、あんたは浮世離れしているからな」
「傘を、最初に買うことにしようか」
「ねぐらだって、見つけなきゃなんねえだろう。いつまでも、楡ホテルってわけにゃいかねえんだよ」
三宅は、五十一だった。
私のことが、子供のように見えるのかもしれない。
通船が接舷してきた。
私はスーツケースをぶらさげ、じゃと三宅に声をかけた。
三宅が、ちょっと頷き返す。
スーツケースをぶらさげているせいか、デリックで吊っただけのタラップはひどく安定が悪かった。
下船するのは、私ひとりのようだ。
船長をはじめ、ほとんど全員が昨夜上陸していた。
通船が動きはじめた。
私は一度だけ振り返って葛城丸を見た。
船体には、かなり錆が浮いている。
船齢二十年の、八千トンの老いぼれだった。
スクラップになる日は、そう遠くないはずだ。

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