風群の荒野 ふうぐんのこうや
  挑戦シリーズⅣ

「狼は哲学者だな。戦闘に熟達しただけのコマンドじゃない」傭兵がつぶやく。
その「狼」に立ち向かうため、石本一幸がペルーにもどってきた。
アフリカで血を吸ったナイフを携え、戦争のプロフェッショナルを伴って。
憎悪と友情、硝煙と血を描いて、物語はクライマックスを迎える。

<単行本>1988年 9月 刊行
<文庫本>1990年 8月25日 初版発行



丁寧に、手を洗った。
新庁舎になってから、トイレも明るく、鏡も大きかった。
陰気臭い小さな鏡に自分の顔を写しながら手を洗ったのが、何年前だったのか定かではない。
「変わりないようですね」
課長は櫛を濡らして髪を整えていた。
黒々とした髪で、髙城の白髪とはいかにも対照的だった
年齢はそれほど変わらないが、警視監だ。
二つ年長の髙城は、もう十年以上も警部のままだった。
何人もの課長が、頭の上をすぎていった。
いつの間にか、髙城より年少の課長がやってくるようになった。
誰もが、髙城には一目置いたものだ。
若いといっても、警視庁の捜査一課長を拝命するのは、やはりそれなりの人物ではあった。
学歴や頭の切れだけでは、二百人を越える腕利きの刑事の統率はできない。
課長の用事がなんなのかわからないので、髙城は黙ったまま手を洗い続けていた。
廊下で擦れ違った時に、トイレに誘われたのだ。
二十年も前の話だが、同じように課長にトイレに誘われたことがあった。
やられたね。
並んで用を足しながら、課長はボソリとそう言った。
誘拐事件の被害者が屍体で発見された時のことだ。
まだ四歳の少年だった。
若い刑事が入ってきたが、課長と髙城の姿を見ると、そそくさと用を足し、手も洗わずに出ていった。
「この間の、あれのことだが。特捜が担当したあれですよ」
「はあ」
「なにがあったのか、知っておく必要はあります」
「それを、私に?」
「髙城さんが、好きじゃないのは知ってますが」
鏡の中を見つめあう恰好になった。
頷くしかなかった。
老いぼれには、似合いの仕事でもある。
「誰を付けましょうか?」
「黙過のところは誰も。必要になれば、諸葛の若いのをひとり借ります」
課長が手を洗い始めた。
石鹸を使って、入念に洗っている。
きれい好きだ、という話は聞いていない。
「武藤を付けましょう」

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