三国志 十の巻
帝座の星(ていざのほし)
関羽雲長死す。
その報は蜀に計り知れぬ衝撃を与えた。
呉の裏切りに対し、自らを責める孔明。
義兄弟を失い、成都へ帰還した劉備と張飛は、苛烈な調練を繰り返し、荊州侵攻、孫権討伐を決意する。
一方、魏王に昇り、帝を脅かす存在となった曹操は、後継を曹丕に譲り、刻々と迫る死に対峙する。
司馬懿とともに魏内の謀反勢力を駆逐する曹丕。
劉備の荊州侵略に備え、蜀へあらゆる謀略を巡らす孫権。
英雄たちの見果てぬ夢が戦を呼ぶ、
北方謙三の〈三国志〉波瀾の第十巻。
帝座の星 目次
烈火
冬に舞う蝶
めぐる帝位
去り行けど君は
死に行く者の日々
遠い明日
帝座の星(ていざのほし)
関羽雲長死す。
その報は蜀に計り知れぬ衝撃を与えた。
呉の裏切りに対し、自らを責める孔明。
義兄弟を失い、成都へ帰還した劉備と張飛は、苛烈な調練を繰り返し、荊州侵攻、孫権討伐を決意する。
一方、魏王に昇り、帝を脅かす存在となった曹操は、後継を曹丕に譲り、刻々と迫る死に対峙する。
司馬懿とともに魏内の謀反勢力を駆逐する曹丕。
劉備の荊州侵略に備え、蜀へあらゆる謀略を巡らす孫権。
英雄たちの見果てぬ夢が戦を呼ぶ、
北方謙三の〈三国志〉波瀾の第十巻。
帝座の星 目次
烈火
冬に舞う蝶
めぐる帝位
去り行けど君は
死に行く者の日々
遠い明日
烈火
谺。けものの咆哮。
張飛は、岩山のはなにひとりで立っていた
谺は、一度だけだった。
それ以上の声は、張飛の躰のどこからも出てこなかった。
涙も、溢れていない。
兄だった男が、死んだ。
乱世では、めずらしいことではない。
三十年以上も、戦場で生きてきた。
死は、いつも古い友のようにそばにいた。
よく生き、よく闘ってきたのだ。
死は休息であり、安らぎでもある。
ともの闘えなかった。
同じ立場に立っていなかった。
心に残るとすれば、それがあるだけだ。
しかし、昔のように数千の流浪の軍というわけではない。
それぞれが将軍として、一群を率いていたのだ。
同じ戦場にいなかったのは、ただの巡り合わせだろう。
いい兄だった。
張飛は、そう思った。
出会っていなければ、とうの昔に自分はつまらぬ死に方をしていたはずだ。
あの兄がいたから、人であり得たという気もする。
死が別れではない。
張飛は、自分にそう言い聞かせた。
一度兄弟となった男との、別れなどはない。
関羽が、先に死んだというだけのことだ。
自分も、そして長兄としてきた劉備も、いずれ死ぬ。
張飛は、招揺に跨ると、岩山を駆け降りた。
岩山から十里ほどのところに、張飛軍の陣はある。
「陳礼、南鄭の軍議に行くぞ。供は二十名でよい」
関羽の死が知らされてからも、張飛はいつでも出動できる態勢は崩さなかった。
最初にやったのは、消沈している兵たちを叱咤することだ。
このまま、雍州に攻めこめるとは思っていない。
しかし、その気になれば出動できる。
それが軍のありようなのだ。
二十名の供は、すぐに揃った。
第一軍の騎馬隊一千を任せている関興のことが気になったが、あえて声はかけなかった。
自分が兄の死を受け止めているように、関興は父の死をひとりで受け止めるしかないのだ。
いずれ、ゆっくりと語り合える時はあるだろう。
南鄭まで、ひと駈けだった。
定軍山から狼煙があがった時、出動する手筈になっていた。
張飛の軍は斜谷道を行き、趙雲は箕谷道を進む。
それも決まっていたが、いまはもうむなしい。
肝心の荊州北部に、蜀軍はいないのだ。
南鄭の本陣には、すでに武将のほとんどは集まっていた。
「お前が到着するのを待っていた。孔明殿が、営舎の居室から出てこようとしない」
趙雲がそばへ来て言った。
「なぜ?」
「気持ちはわかってやれ。自分が立てた作戦が潰え、関羽殿が死んだのだ」
呉軍の裏切りにより、関羽が死んだという知らせが入ったのは、きのうだった。
張飛が本陣へ駆けつけた時、孔明は蒼白な表情こそしていたものの、落ち着いていた。
なお調べる必要があると言い、今日の軍議を指定したのだった。
「孔明殿が居室に籠りきりでは、なにもはじまるまい」
「それはそうなのだが、すでに雍州進行は無理だという情勢になっている」
「漢中には、蜀軍の主力が集結しているのだぞ。
今後どうするかは、孔明殿が決めるしかないのだ。
俺が行って、話してこよう」
劉備は、三万を率いて漢中にむかっていたが、関羽の死を知り、成都に引き返したという。
漢中の蜀軍の配置を決めるのは、孔明の仕事になっている。
張飛は、営舎の奥の孔明の居室に入っていった。
孔明は、床に座りこみ、じっと眼を閉じていた。
まるで彫像のようなものだ。
思い悩んでいるのではなく、ただ自分を責めている。
張飛には、そう見えた。
「諸将が集まっている。軍議をはじめたいのだが、孔明殿」
(…この続きは本書にてどうぞ)
谺。けものの咆哮。
張飛は、岩山のはなにひとりで立っていた
谺は、一度だけだった。
それ以上の声は、張飛の躰のどこからも出てこなかった。
涙も、溢れていない。
兄だった男が、死んだ。
乱世では、めずらしいことではない。
三十年以上も、戦場で生きてきた。
死は、いつも古い友のようにそばにいた。
よく生き、よく闘ってきたのだ。
死は休息であり、安らぎでもある。
ともの闘えなかった。
同じ立場に立っていなかった。
心に残るとすれば、それがあるだけだ。
しかし、昔のように数千の流浪の軍というわけではない。
それぞれが将軍として、一群を率いていたのだ。
同じ戦場にいなかったのは、ただの巡り合わせだろう。
いい兄だった。
張飛は、そう思った。
出会っていなければ、とうの昔に自分はつまらぬ死に方をしていたはずだ。
あの兄がいたから、人であり得たという気もする。
死が別れではない。
張飛は、自分にそう言い聞かせた。
一度兄弟となった男との、別れなどはない。
関羽が、先に死んだというだけのことだ。
自分も、そして長兄としてきた劉備も、いずれ死ぬ。
張飛は、招揺に跨ると、岩山を駆け降りた。
岩山から十里ほどのところに、張飛軍の陣はある。
「陳礼、南鄭の軍議に行くぞ。供は二十名でよい」
関羽の死が知らされてからも、張飛はいつでも出動できる態勢は崩さなかった。
最初にやったのは、消沈している兵たちを叱咤することだ。
このまま、雍州に攻めこめるとは思っていない。
しかし、その気になれば出動できる。
それが軍のありようなのだ。
二十名の供は、すぐに揃った。
第一軍の騎馬隊一千を任せている関興のことが気になったが、あえて声はかけなかった。
自分が兄の死を受け止めているように、関興は父の死をひとりで受け止めるしかないのだ。
いずれ、ゆっくりと語り合える時はあるだろう。
南鄭まで、ひと駈けだった。
定軍山から狼煙があがった時、出動する手筈になっていた。
張飛の軍は斜谷道を行き、趙雲は箕谷道を進む。
それも決まっていたが、いまはもうむなしい。
肝心の荊州北部に、蜀軍はいないのだ。
南鄭の本陣には、すでに武将のほとんどは集まっていた。
「お前が到着するのを待っていた。孔明殿が、営舎の居室から出てこようとしない」
趙雲がそばへ来て言った。
「なぜ?」
「気持ちはわかってやれ。自分が立てた作戦が潰え、関羽殿が死んだのだ」
呉軍の裏切りにより、関羽が死んだという知らせが入ったのは、きのうだった。
張飛が本陣へ駆けつけた時、孔明は蒼白な表情こそしていたものの、落ち着いていた。
なお調べる必要があると言い、今日の軍議を指定したのだった。
「孔明殿が居室に籠りきりでは、なにもはじまるまい」
「それはそうなのだが、すでに雍州進行は無理だという情勢になっている」
「漢中には、蜀軍の主力が集結しているのだぞ。
今後どうするかは、孔明殿が決めるしかないのだ。
俺が行って、話してこよう」
劉備は、三万を率いて漢中にむかっていたが、関羽の死を知り、成都に引き返したという。
漢中の蜀軍の配置を決めるのは、孔明の仕事になっている。
張飛は、営舎の奥の孔明の居室に入っていった。
孔明は、床に座りこみ、じっと眼を閉じていた。
まるで彫像のようなものだ。
思い悩んでいるのではなく、ただ自分を責めている。
張飛には、そう見えた。
「諸将が集まっている。軍議をはじめたいのだが、孔明殿」
(…この続きは本書にてどうぞ)