三国志 二の巻
  参旗の星(さんきのほし)

繁栄を極めたかつての都は、焦土と化した。
長安に遷都した薫卓の暴挙は一層激しさを増していく。
主の横暴をよそに、病に伏せる妻に痛心する呂布。
その機に乗じ、政事への野望を目論む王允は、
薫卓の信頼厚い呂布と妻に姦計をめぐらす。
一方、兗州を制し、百万の青州黄巾軍に僅か三万の兵で挑む曹操。
父・孫堅の意志を胸に秘め、覇業を目指す孫策。
そして、関羽、張飛とともに予州で機を伺う劉備。
秋の風が波瀾を起こす
北方謙三の〈三国志〉第二巻。

参旗の星 目次
 鳥の翼
 降旗
 黒きけもの
 大志は徐州になく
 流浪果てなき
 それぞれの覇道
鳥の翼

郿塢に車列が続いていた。
途中までその数を数え、王允はうつむいた。
無駄なことだった。
力で洛陽から移されてきた民は、それでも日々の暮らしの中で、少しずつ富を生み出していく。
百万を超える民の営みが生んだ富は、少なくはなかった。
それを、董卓が召上げる。
召しあげたものは、すべて郿塢に運ぶのである。
長安と同じように造られた郿塢に、董卓はあらゆる富を蓄えていた。
金、銀、財物はもとより、千人に余る女まで蓄えているのだ。
糧食の蓄えは、すでに二十年分に達しているという。
王允は、司徒(最高職、三公のうちのひとつ)である。
しかし、司徒の力などはありはしなかった。
丞相府がきちんと機能するために置かれた、事務官に過ぎないのだと思う。
そう思っていなければ、とても董卓の命令には従えなかった。
力がすべてなのだ。
そう思った時、王允はただうつむくだけだった。
かつては、天子を補佐して、漢王室の政事を担う才と人々から言われた。
自負もあった。
宦官が力を持った時も、それに阿ることはせず、流浪までした。
洛陽を制した董卓から、司徒に就いてくれと頼まれた時は、これでようやく自分の政事ができるのだと思った。
軍事は董卓がみて、政事は自分がみる。
それで、倒れかかった漢王室も、蘇生するはずだったのだ。
しかし、日に日に、董卓の専横を抑えきれなくなった。
田舎者と、はじめは馬鹿にしながら従っていたが、それは次第に恐怖に変わっていった。
とにかく、血は流れるのである。
誰であろうと、容赦する気配が董卓にはなかった。
洛陽から長安への遷都という暴挙にも、ただうつむいて従った。
反対する者は首を刎ねられるだろうと思い、事実そうなった。
自らの怯懦を恥じた。
しかしいま、董卓の暴虐を止める手だてはない。
声をあげたところで首を刎ねられるだけであり、それは暴挙の激しさを増す死にすぎないのだ。
死を怖れてはいない、と王允は思っていた。
意味のある死ならばだ。
董卓は、このところ物欲を剥き出しにしていた。
洛陽を捨てるころからその傾向は強まっていたが、今はさながら物欲の化身である。
女すらも、物として見ていた。
若い将軍たちは董卓のもとを去り、それぞれに力を蓄えようとしていた。
しかし、連合することは失敗した。
誰かが董卓を上回る勢力を持つまでに、何年がかかるというのか。
若い将軍たちは、まだ何人か残っていた。
それが、軍にある権威を与えていることは確かだった。
ただ、力はない。
力があるのは、董卓直属の将軍たちだ。
李傕を筆頭にして、四名いる。
それぞれに二万から一万の群を率い、それは飛熊軍と呼ばれて精鋭なのだという。
あまり、長安に入ってくることはなかった。
長安には常時五万ほどの軍はいるが、その中の二万を率いている呂布の軍は、王允の眼から見ても、間違いなく精鋭だった。
董卓直属の五人の将軍というが、呂布だけが別格だった。
それに董卓の本拠の涼州から来たのではなく、呂布はもともと執金吾(警視総監)の丁原の部下だったのである。
父子の契りを結んだ丁原の首をあっさりと刎ね、董卓に従った。
呂布が出ていく戦には、負けることがないという。
黒ずくめの軍装を、王允は何度か見たことがあった。
麾下の五百騎も、最近では黒ずくめである。
黒い魔物が動いているようにさえ、王允には見える。
王允は、呂布と親しくしていた。
董卓とも父子の契りを結んでいる若い将軍は、王允に恐怖感しか与えなかったが、ほかの四人の将軍とは違うなにかも感じていたのだ。
同じように、いや四人以上に粗暴だが、それが物欲や権力欲の絡んだものではなかった。
少年の持つ粗暴さのように思える時さえある。

(…この続きは本書にてどうぞ)

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