雨は心だけ濡らす

雨の音、ブルースの旋律。
すべてが過去の音に聴こえる夜。
葬ったはずの悲しみが、男の心に蘇る。
黙って逝った女の酒場で起きた殺人事件。
抑えきれない激情を秘め、、男は事件に首を突っ込んでゆく。
成功者と人から呼ばれながら、枯れるのを待つ男にも、闘わねばならない時が来た。
寄るべない喪失感と、湧き上がる情熱を込めたハードボイルド長編。

<単行本>1994年 3月 刊行
<文庫本>平成9年 4月25日 初版発行

第一章

常連の客ではなかった。
入ってきた時に店の中にくれた一瞥で、吉井にはそれがわかった。
どういう店なのかと、測るような眼だったのだ。
明子はかすかに戸惑う仕草を見せ、なにか言いそうになり、それから笑顔を作るといらっしゃいませ、と言った。
カウンターには吉井ひとりで、音楽さえもかかっていない。
男は、それを気にしたふうでもなかった。
「コニャックを一杯」
音楽のない店の中は、月曜の朝の教会のようで、男の声は暗く湿りを帯びて聞えた。
明子は、ブランデーグラスとチェイサーを置き、男の前に立った。
吉井は客ではなく、男は客だということを考えれば、当たり前の行動だった。
ただ、この店はいま当たり前の状態ではない。
カウンターの中にはバーテンがいて、ブースには女の子たちがいる。
嬌声と音楽が入り混じり、煙草の煙も籠っている。
一週間前はそうだっただろうが、いまいるのは禁煙して多少苛立っている刑事がひとりだった。
吉井の禁煙は、四日目になる。
「ボトルキープも、できるのかね?」
四十五にはなっているが、五十にはなっていない。
その程度の年恰好だろう、と吉井は思った。
吉井は、四十七になる。
男は、スツールを二つ隔てたところにいて、両肘をカウンターについていた。
いいジャケットだった。
靴も悪くない。
自分の身なりと較べると、ちょっと気後れがしてしまいそうだった。
若い者がいい服を着ていても、それほど気になったりはしないが、同年配だと服もその人間の人生を測るもののひとつだった。
男はなにか難しい酒の名を言ったが、それはなく、カミュのナポレオンで妥協したようだった。
ネームタグに、男がボールペンで名前を書き込む。
藤森という名だった。

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