鳥影 ちょうえい
“ブラディ・ドール”シリーズ 8

男は、三年前に別れた妻を救うために、その街にやってきた。
「なにからはじめればいいのか、やっとわかったよ。
 殴られた。
 死ぬほど殴られた。
 殴られたってことから、俺ははじめるよ。」
妻の死。息子との再会。
男はN市で起きた土地抗争に首をつっこんでいき、
喪失してしまった何かを、取り戻そうとする。
一方、謎の政治家大河内が、ついにその抗争に顔を出し始めた。
大河内の陰謀に執拗に食い下がる川中、そしてキドニー。
いま、静寂の底に熱き魂が、再び鬨の声をあげる!

<単行本>平成2年12月 刊行
<文庫本>平成5年1月10日 初版発行

香り

ありふれた駅だった。
ちょっと古びた階段を昇り、改札口を出ると、駅舎よりはかなり新しい駅ビルに続いている通路があった。
人が多い時間ではない。
私は駅ビルの一階のレンタカーのカウンターに行って、白いカローラを借り出し、付近の道路地図を貰った。
それでは、街の詳しい道はわからなかった。
中心街は、駅から少し離れたところにあるらしい。
駅前には、古い構えの商店がいくつか並んでいるだけだ。
私は小さなスーツケースを助手席に放り込み、コートを脱いだ。
晴れていて暖かかった。
晴れていなくても、寒さが厳しい土地でないことは知っていた。
知っているのはそれぐらいのもので、つまりはまったくのよそ者というわけだ。
それほど広い街とも思えなかった。
車を出し、とりあえず港の方にむかってみる。
心の底にはかすかなためらいがあり、どうでもいいのだという投げたような気分もある。
その気分移りでもしたように、オートマティックのカローラはのろのろと走り、それが街の風景に溶け込んでいく様子が、運転している私にもぼんやりと見えてくるのだった。
信号待ちの時に、煙草に火をつけた。
発進する。
ミラーに赤い塊が映り、多いくなってきたので、私は左に車を寄せた。
赤い塊は右側を走り抜けていく。
独特のエンジン音を響かせた、フェラーリ328だった。
この街にも、贅沢な車を乗り回す金持ちはいるらしい。
「日吉町は、どういけばいいのかな?」
交差点に立っている巡査に、窓を降ろして私は訊ねた。
交通整理をしているようでもなく、ただ信号柱の下に立っていただけだ。
巡査は私の顔をしばらく見つめ、それから掌の上に指さきで道を描きながら説明してくれた。
まったく違う方向へ、走ってきていたようだ。
港へ行くのはやめにし、私は巡査が教えてくれた最初の角を曲がった。
「とにかく橋を渡れか」
巡査が言った言葉を、私は呟き返した。
ただ道を説明されたのではなく、別の意味もこめられているように思えてくる。
片側四車線の、広い道路を横切った。
工場地帯から港へ通じる、産業道路らしい。
すぐに、古い住宅街に入った。
どこにでもあるような市街。
住宅街が終わると、大抵は田か畠になる。
橋があった。
川の向こう側は田畠ではなく、やはり住宅街だった。
それも、七、8階建のマンションがいくつも見えた。
新興住宅街というやつか。
川沿いから海沿いは三吉町で、日吉町はその奥らしい。
ところどころ、古い農家に似た建物や門構えがあり、それに隣接するようにマンションが建っている。
電柱の住所表示が日吉町になった。

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