残照 ざんしょう
“ブラディ・ドール”シリーズ 7
「なにも言わずに消える。
それが俺には納得できなかった」
自分の前から、突然消えた女を追いかけて
青年はこの街にやってきた。
癌に冒された男との出会い。
滅びゆく男に魅いられた女との再会。
青年は、それから生きていくためのけじめを求めた。
やがて死に向かった男の命の炎が燃え尽きたとき、
友の瞼に残照が焼き付けられる。
喪失しつづけた男たちが辿り着く酒場を舞台に、
己の掟に固執する男の姿を彫りおこす好評
“ブラディ・ドール”シリーズの第7弾
“ブラディ・ドール”シリーズ 7
「なにも言わずに消える。
それが俺には納得できなかった」
自分の前から、突然消えた女を追いかけて
青年はこの街にやってきた。
癌に冒された男との出会い。
滅びゆく男に魅いられた女との再会。
青年は、それから生きていくためのけじめを求めた。
やがて死に向かった男の命の炎が燃え尽きたとき、
友の瞼に残照が焼き付けられる。
喪失しつづけた男たちが辿り着く酒場を舞台に、
己の掟に固執する男の姿を彫りおこす好評
“ブラディ・ドール”シリーズの第7弾
<単行本>平成2年1月 刊行
<文庫本>平成4年12月10日 初版発行
尾灯
潮の匂いがした。
海が好きだと思ったことは、一度もない。
育ったのは長野県の山の中だったから、泳ぎを覚えたのも湖だった。
海に泳ぎに行くようになったのは、東京に出てきてからだ。
いまは泳げる季節でもなかった。
俺の財産といえば、二万キロ走ったRX-7と、後部座席に放り込んだ二つのスーツケースと、銀行預金の残高ゼロにしたためにちょっとばかり厚くなった牛皮の財布くらいのものだった。
心さえ、俺の財産ではない。
いやな街だ。
はじめての時も、二度目の時もそう思った。
いまも変わらない。
やけに赤っぽい夕方の光が、街をすっぽりと覆っている。
血を薄めた水の中にあるような街だ。
俺は、十日前から再びはじめた煙草に火をつけた。
会社のデスクの抽出の奥に、五年前のジッポが眠っていて、オイルの匂いさえしなくなっていたが、ガソリンを綿にしみこませてやると、結構使えるようになった。
ほかの私物はみんな捨てたが、これだけは持っていることにしたのだ。
高速道路を降りて、二十分ほどで駅に着いた。
駅のそばの、四階建てのビジネスホテルに部屋をとった。
この街に、長くいる気はない。
小さな窓とベッドと、バス。
それだけあれば十分だった。
ベッドの脇には、ようやく通れるほどの余裕があるだけで、ほかには椅子すらもなかった。
俺は、しばらくベッドに腰を降ろしていた。
不思議なことに、何も考えたりはしなかった。
十日前までは、ベッドどころか、会社のデスクでも、電車の中でも、飯を食いながらでもひとつのことを考え続けていた。
いまなにも考えないのは、多分、やることを決めてしまっているからだろう。
煙草を二本灰にすると、俺は腰をあげて電話に手を伸ばした。
三度のコールで繋がったが、やはり留守番電話だった。
十日前に話した時から、いくらかけても留守番電話しか出なくなっていた。
メッセージの言葉も、もう見つからない。
受話器を置き、一度部屋を出て廊下の自動販売機で缶ビールを二本買って、一本のプルトップを抜き、飲みながら戻ってきた。
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
明るくても暗くても、窓からはなにも見えはしない。
手をのばせば届きそうなところに、隣の建物のベージュ色の壁があるのだ。
二本目のビールのプルトップを引いた。
爪がのびて黒い垢が溜まっていることに気づき、俺はスーツケースのひとつをひっくり返した。
ようやく、爪切りが見つかった。
パチパチという、爪を切る音が部屋の中に響いた。
手と足の爪を全部切ってしまうと、シャワーを使った。
くたびれたバスタオルを腰に巻いて出てきた時、ようやく六時になっていた。
セーターの上に革ジャンパー。
部屋を出て、車に乗りこんだ。
...続きは本書でどうぞ
潮の匂いがした。
海が好きだと思ったことは、一度もない。
育ったのは長野県の山の中だったから、泳ぎを覚えたのも湖だった。
海に泳ぎに行くようになったのは、東京に出てきてからだ。
いまは泳げる季節でもなかった。
俺の財産といえば、二万キロ走ったRX-7と、後部座席に放り込んだ二つのスーツケースと、銀行預金の残高ゼロにしたためにちょっとばかり厚くなった牛皮の財布くらいのものだった。
心さえ、俺の財産ではない。
いやな街だ。
はじめての時も、二度目の時もそう思った。
いまも変わらない。
やけに赤っぽい夕方の光が、街をすっぽりと覆っている。
血を薄めた水の中にあるような街だ。
俺は、十日前から再びはじめた煙草に火をつけた。
会社のデスクの抽出の奥に、五年前のジッポが眠っていて、オイルの匂いさえしなくなっていたが、ガソリンを綿にしみこませてやると、結構使えるようになった。
ほかの私物はみんな捨てたが、これだけは持っていることにしたのだ。
高速道路を降りて、二十分ほどで駅に着いた。
駅のそばの、四階建てのビジネスホテルに部屋をとった。
この街に、長くいる気はない。
小さな窓とベッドと、バス。
それだけあれば十分だった。
ベッドの脇には、ようやく通れるほどの余裕があるだけで、ほかには椅子すらもなかった。
俺は、しばらくベッドに腰を降ろしていた。
不思議なことに、何も考えたりはしなかった。
十日前までは、ベッドどころか、会社のデスクでも、電車の中でも、飯を食いながらでもひとつのことを考え続けていた。
いまなにも考えないのは、多分、やることを決めてしまっているからだろう。
煙草を二本灰にすると、俺は腰をあげて電話に手を伸ばした。
三度のコールで繋がったが、やはり留守番電話だった。
十日前に話した時から、いくらかけても留守番電話しか出なくなっていた。
メッセージの言葉も、もう見つからない。
受話器を置き、一度部屋を出て廊下の自動販売機で缶ビールを二本買って、一本のプルトップを抜き、飲みながら戻ってきた。
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
明るくても暗くても、窓からはなにも見えはしない。
手をのばせば届きそうなところに、隣の建物のベージュ色の壁があるのだ。
二本目のビールのプルトップを引いた。
爪がのびて黒い垢が溜まっていることに気づき、俺はスーツケースのひとつをひっくり返した。
ようやく、爪切りが見つかった。
パチパチという、爪を切る音が部屋の中に響いた。
手と足の爪を全部切ってしまうと、シャワーを使った。
くたびれたバスタオルを腰に巻いて出てきた時、ようやく六時になっていた。
セーターの上に革ジャンパー。
部屋を出て、車に乗りこんだ。
...続きは本書でどうぞ