肉迫 にくはく
“ブラディ・ドール”シリーズ 3

固い決意を胸に秘め、男は帰ってきた。
港町N市──妻を失った男には、闘うことしか残されていなかった。
男は抗争の火種のような土地を手に入れた。
予想通りの妨害、脅迫。
その背後にひそむ開発会社の社長こそフロリダで妻を殺した黒幕なのだ。
男はパイソン357に玉を装填した。
男の熱い血に引き寄せられていく女、そしてブラディ・ドールの男たち。
導火線に火は点いた。
N市に再びハードボイルドの幕が開く。
“ブラディ・ドール”シリーズ、第三弾。

<単行本>昭和62年1月 刊行
<文庫本>平成2年3月25日 初版発行

  海流

横波が、船腹を打った。
揺れそのものは、ひどくない。
時々、避けきれない横波が、船体を傾けるくらいだ。
船底が海面を打つくらいの縦波に見舞われると、安見は小さな背中をふるわせて吐きはじめる。
横揺の方がまだいいというのも、おかしなものだ。
もっとも、本格的な時化では、揺れは縦も横も同時に襲ってくる。
私はパイプに火を入れ、海図を覗きこんだ。
どういうこともない距離だ。
海が静かなら、快適なクルージングになっただろう。
釣りでもしながら、行けたかもしれない。
「ロン・コリ、一杯作ろうか?」
土崎三生が、白いものがかなり目立つ顎鬚を掌で撫でながら入ってきた。
飛沫で濡れたようだ。
土崎は、髭がもっと白くなることを望んでいた。
ようやく髭だけはパパに似てくるというわけだ。
パパと言っても父親のことではなく、彼の好きなヘミングウェイのことだった。
「一杯だけ、貰おうか」
「お嬢には隠れてやりなよ。いま、お嬢はなにも飲まねえ方がいいから」
「わかってるさ」
私は、遠くの波の具合を双眼鏡で確かめた。
海流が複雑に入り組んだ海域なので、波も思わぬ方向からやってくる。
船は、車と違って、敏感に舵に反応しない。
小回りが利かないというやつだ。
遠くにある波に備えて、早くから方向を修正しておいた方がいい。
ロン・コリが計器盤の上の台に置かれた。
土崎が作るものは、いつも甘すぎる。
キューバふうにやろうとして、砂糖を大目に入れてしまうのだ。
ほんとうはモヒートを作りたいのだろうが、日本ではミントの葉が手に入らない。
ラム酒だけは、ハバナクラブをどこからか手に入れてきた。
「日本の海も、悪かねえな。このところ、そう思えてきた」
「死んだ色をしている、と言ってたじゃないか」
「そりゃな。十年近くカリブ海を眺めて暮らしてきたんだ」
といって、土崎がキューバにいたことはなかった。
キーラーゴというフロリダ半島の町で、何年か漁師をやっただけだ。
「バラクーダがいりゃ、俺もこの海で満足なんだが」

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