さらば、荒野 さらば、こうや
“ブラディ・ドール”シリーズ 1

冬は海からやって来る。
毎年、静かにそれを見ていたかった。
だが、友よ。
人生を降りた者にも闘わねばならない時がある。
虚無と一瞬の激情を秘めて、ケンタッキー・バーボンに喉を灼く男。
折り合いのつかない愛に身をよじる女──。
夜。霧雨。酒場。
本格ハードボイルドの幕があく

<単行本>昭和58年 刊行
<文庫本>昭和60年4月10日 初版発行

  シティホテル

雨が降りはじめていた。
フロントグラスに付着した水滴でようやくそれとわかるほどの、細かい雨だ。
ワイパーは使わなかった。
先行車のテールランプが赤く滲んで見える。
シティホテルの駐車場は、玄関の裏手にあった。
車から降りると、濃い霧にでも包み込まれたような気分が、私を襲ってきた。
黒いクラウンは、道路の向こう側に停まった。
時折行き過ぎるヘッドライトが、濡れた車体を脱皮したばかりの甲虫のように夜の中に照らし出した。
駐車場から玄関まで歩く間に、湿気は躰の芯にまでしみこんできた。
クラウンからは、白っぽいトレンチを着た男が降りてきて、大股で道を横断してくる。
玄関の前で私と行き違った。
厚い硝子の扉に手をかけ、私は男をふりかえった。
眼を合わせようとはしない。
じっと立っている私の脇を、男は急ぎの用事にでも追われているように素早くすり抜け、ホテルに入った。
ロビーには、五、六人の人影しかなかった。
男は、その中の誰に会いにきたわけでもなさそうだった。
私がエレベーターの前に立つと、その男も立った。
扉が開く。
乗りこんでも、私はボタンを押さなかった。
男が六階のボタンを押す。
動きはじめてから、私は最上階の八階のボタンを押した。
そこの片隅に、レストランと並んで小さなバーがある。
私の行先はそのバーだった。
六階で扉があき、男が無表情で降りていった。
一度も眼を合わせようとはしなかった。
私が事務所を出た時から、黒いクラウンはずっと後ろを走ってきた。
きのうもそうだった。
偶然ではないらしい、と気づいたのはついさっきのことだ。
八階で扉が開いた。
「降りはじめましたですか?」
初老のバーテンが、私のバーバリーの水滴に眼をとめた。
カウンターの端で、キドニーがジャック・ダニエルのボトルを抱えていた。
むくんだ瞼の奥の眼が、キラリと私の方へ動いた。
「ジン・トニック」
私はコートを脱いで、キドニーの隣に腰を降ろした。
「俺のテネシー・ウイスキーを一杯やらんか?」
「稲村の爺さんと会わなくちゃならん」
「ふうん、店じゃんまくてここか」
市長の稲村千吉は、私の経営しているクラブへよくやってくる。
ほかにも私はバーとキャバレーを一軒ずつ持っているが、市長の体面を考えているのか、そちらの方へは姿を見せない。
『ブラディ・ドール』は、小さいがこの街で唯一の会員制高級クラブだ。

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