北方謙三
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三国志 八の巻
  水府の星(すいふのほし)

赤壁の戦いで大勝を収めた周愉は、自ら唱えた天下二分に向け、益州への侵攻を決意する。
孫権と劉備との同盟成立で、その機が訪れたのだ。
だが、周愉に取り憑いた病は、刻々とその体を蝕んでいく。
一方、涼州で勢力を拡大し、関中十部軍を率いて、父と一族を殺した曹操に復習の刃を向ける馬超。
謀略を巡らせ、その馬超を追い詰める曹操。
そして劉備は、孔明とともに、天下三分の実現のためはるかなる益州を目指す。
北方謙三の〈三国志〉激動の第八巻。

水府の星 目次
 野の花
 長江の冬
 乱世再び
 曇天の虹
 新しき道
野の花

白馬に、赤い具足姿がよく似合った。
それでも、若武者と呼ぶには、いくらか小柄で華奢である。
董香は、並んで駈けながら、周囲に気を配っていた。
公安のそばの原野と言っても、まわりが味方とはかぎらない。
前の支配者である劉表に仕えていた者は当然いるし、劉備の陣営でも孫夫人の輿入れを快く思ってない者もいるだろう。
そして長江の対岸で大勢力を形成している周瑜は、孫夫人を殺すことすら考えかねない。
孫家の中でも、張昭や魯粛は劉備との縁組に賛成で、周瑜はかなり強い反対の意思を持っていたという。
孫夫人が、劉備のもとで殺されるということになれば、周瑜にとっては悪い展開ではなくなるのだ。
周瑜の戦略の中に、劉備軍は入っていない、と夫の張飛は言っていた。
益州を取り、荊州北部と揚州で南方勢力を作りあげ、北の曹操と対峙する。
それが周瑜の戦略であり、基本的には孫権も同意していることだろう、と張飛は言った。
両家の婚姻は、益州を奪るまで荊州の安全をはかる、という程度の意味しか孫家にはないはずだ。
丘の頂で、孫夫人は手綱を絞った。
馬は一瞬棹立ちになりかけ、馬首を横にむけて止まった。
駈けてきた方をふり返り、孫夫人が舌打ちをする。
「まったく、馬でも剣でも、揚州の女たちは府甲斐なさすぎる」
「舌打ちなどをされてはなりません、孫夫人。戦は、女の仕事ではないのです」
「しかし、劉家には、そなたのような女子がいるではないか」
「私は、男のようなものです。
躰も大きく、力も強く生まれついてしまいました。
兵たちも、私を女だなどと思っておりません」
「音に聞こえた豪傑の心を射止めたではないか、董香。
張飛との間で、三人の子も成している。
董香は、女の中の女だ、と私は思っています」
「なにをおっしゃられます。
夫はいつも、女らしくしろと私に申します。
所詮は女で、武器を執って男に勝つことはできないと、打ち倒すことで私に教えもしました」
「こんな時代です。
女が武器を執って闘わなければならない時もありましょう。
私は、そのためにも、女たちは修練を積まなければならないと思う」
「だからこそ、私もこうしてお供をいたしております。
しかし、戦いをするのは、やはり男です。
男ができないことを、女はまずきちんとやらなければなりません。
武芸の修練を積むのは、そのあとのことです」
ようやく、供の女たち二十騎ほどが、追いついてきた。
孫夫人は、それを見て馬首を公安の城にむけた。
もう、疾駆しようとしない。
供周りが追いついてこれるように、軽く駈けているだけである。
董香は最初に会った時から、孫夫人に対して、懐かしさに似たような親しみを感じていた。
若いころの、じゃじゃ馬と呼ばれて父をはじめ家中の者たちに持て余された、武芸好きの自分を見たような気分だったのかもしれない。
最初の出会いは、剣を執っての対峙だった。
輿入れをしてきた孫夫人が、いくら劉備が言っても、剣を佩くことをやめようとしない。
劉家に、自分に勝つことができる女がいたら、剣を佩くのをやめるとうそぶいたのである。
それで、自分が呼ばれた。
張飛には、腕の一本も斬り落としてやれと言われ、劉備には、殺すなとだけ言われた。
対峙したのは劉備の館の庭で、劉備のほかには、揚州からついてきていた数十人の供の女たちのうちの二人が見ていただけだ。
確かに、女としては腕が立った。
きちんとした剣の技を、習得している気配もあった。
しかし、非力だった。
実戦の経験も、勿論持っていなかった。
まるで踊りのような剣だ、と董香は思った。

(…この続きは本書にてどうぞ)

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