三国志 一の巻
天狼の星(てんろうのほし)
時は、後漢末の中国。
政が乱れ賊の蔓延る世に、信義を貫く者があった。
姓は劉、名は備、字は元徳。
その男と出会い、共に覇道を歩む決意をする関羽と張飛。
黄巾賊が全土で蜂起するなか、劉備らはその闘いへ身を投じていく。
官軍として、黄巾賊討伐にあたる曹操。
義勇兵に身を置き野望を馳せる孫堅。
覇業を志す者たちが起ち、出会い、乱世に風を興す。
激しくも哀切な興亡ドラマを雄渾華麗に謳いあげる
北方謙三の〈三国志〉第一巻。
天狼の星 目次
馬群
砂塵遠く
天子崩御
洛陽内外
諸侯参集
群雄の時
地平はるかなり
天狼の星(てんろうのほし)
時は、後漢末の中国。
政が乱れ賊の蔓延る世に、信義を貫く者があった。
姓は劉、名は備、字は元徳。
その男と出会い、共に覇道を歩む決意をする関羽と張飛。
黄巾賊が全土で蜂起するなか、劉備らはその闘いへ身を投じていく。
官軍として、黄巾賊討伐にあたる曹操。
義勇兵に身を置き野望を馳せる孫堅。
覇業を志す者たちが起ち、出会い、乱世に風を興す。
激しくも哀切な興亡ドラマを雄渾華麗に謳いあげる
北方謙三の〈三国志〉第一巻。
天狼の星 目次
馬群
砂塵遠く
天子崩御
洛陽内外
諸侯参集
群雄の時
地平はるかなり
馬群
草原が燃えたいた。
火は拡がることなく、ひとすじの煙をあげているだけだ。
男は息をこらした。
煙は次第に近づいてきて、やがてそれが土煙であることも見てとれるようになった。
馬の姿が現れた。
男が片手をあげ、しばらく間を置いて振り降ろした。
男の両側にいた二十六騎が、一斉に走りはじめた。
六百頭の馬。
むかってくる。
まるで馬ではない別のもののようにみえた。
地そのものが動いている。
二十六騎のうち、十六騎が横に回った。
馬群の後方にいる数十騎。
土煙を浴び、顔を伏せている者が多い。
斬り落とし、蹴散らすのに、大した時はかからなかった。
馬群は方向を変え、丘と丘の間の小さな草原で、ひとかたまりになってとまった。
追い散らした者たちの数は、六、七十人というところか。
その内の十数人は、斬り落とされて死んでいた。
こちらの二十六人は、さしたる傷を負った者さえいない。
「これから、馬を小さくまとめて、信都にむかう。
およそ二百里。
二日で到着して馬を持ち主に返す」
「待てよ。せっかく六百頭からの馬を手に入れたんだ。
黙って返すって手はねえだろう。
俺たちで売っ払って、金を分けよう」
「馬を取り返し、信都まで運ぶ。
はじめから、そういう話だったはずだ」
「そりゃ、そういう約束で小金を貰った。
誰も取り返せるなんて思ってねえから、一応ついてきただけさ。
取り返せたのは、運がよかった。
この運を逃がす手はないぜ」
涿県の居酒屋で雇った、四人のうちのひとりだった。
四人は、仲間と考えていいだろう。
ほかにも、何人か同調しそうな気配がある。
「私は、はじめから取り返すつもりでいた」
男は、人の輪の外にいる、二人の大柄な男に眼をむけて言った。
不意打ちの乱戦というかたちだった。
その二人は、本気を出したとも思えないのに、働きは尋常ではなかった。
ぶつかった相手を馬から抱えあげ、別の相手へ投げつけるなどということを、たやすくやっていたのだ。
「運がよかったと言うなら、それもよかろう。
だが私は、そういうちっぽけな運など欲しくはない。
信都へ行けば、礼金が出る。
おまけに、信用というものも手に入る」
男の背後には、護衛するように六人が回った。
この六人と、涿県の北で馬を飼うことを生業にしていたひとり。
男が信用しているのは、この七人だけだった。
六人は、涿県で日頃から親しんでいる若者もたちである。
「わかったよ。
それなら馬を頭数で分けねえか。
信用の欲しいやつは、信都へいけばいい。
俺はいやだな。
途中に賊の仲間の巣があって、そこにゃ二百人はいるぜ。
死なないまでも、みすみす馬を奪い返されるに決まっている」
「ならば、去れ。
私は、賊になるつもりはない。
男には、命を捨てても守りきらなければならないものがある。
それが、信義だ、と私は思っている」
「なにが信義だ、こんな世の中で」
汚い歯を剥き出して、男が嗤った。
ほかの三人も嗤いはじめる。
輪の外にいた二人の大男が、ゆっくりと近づいてきた。
草地に風が通った。
草の靡きが、湖上の波のように拡がっていく。
「六百頭の馬を、二日で信都へ届けるだと。
それがうまくできるという心積もりが、あんたにはあるんだろうな」
眼の大きな方の男だった。
まだ若い。
声も大きかった。
「成算がないわけではない。しかし、うまくいくとも断言もできない」
「それでも、やろうというのか?」
(…この続きは本書にてどうぞ)
草原が燃えたいた。
火は拡がることなく、ひとすじの煙をあげているだけだ。
男は息をこらした。
煙は次第に近づいてきて、やがてそれが土煙であることも見てとれるようになった。
馬の姿が現れた。
男が片手をあげ、しばらく間を置いて振り降ろした。
男の両側にいた二十六騎が、一斉に走りはじめた。
六百頭の馬。
むかってくる。
まるで馬ではない別のもののようにみえた。
地そのものが動いている。
二十六騎のうち、十六騎が横に回った。
馬群の後方にいる数十騎。
土煙を浴び、顔を伏せている者が多い。
斬り落とし、蹴散らすのに、大した時はかからなかった。
馬群は方向を変え、丘と丘の間の小さな草原で、ひとかたまりになってとまった。
追い散らした者たちの数は、六、七十人というところか。
その内の十数人は、斬り落とされて死んでいた。
こちらの二十六人は、さしたる傷を負った者さえいない。
「これから、馬を小さくまとめて、信都にむかう。
およそ二百里。
二日で到着して馬を持ち主に返す」
「待てよ。せっかく六百頭からの馬を手に入れたんだ。
黙って返すって手はねえだろう。
俺たちで売っ払って、金を分けよう」
「馬を取り返し、信都まで運ぶ。
はじめから、そういう話だったはずだ」
「そりゃ、そういう約束で小金を貰った。
誰も取り返せるなんて思ってねえから、一応ついてきただけさ。
取り返せたのは、運がよかった。
この運を逃がす手はないぜ」
涿県の居酒屋で雇った、四人のうちのひとりだった。
四人は、仲間と考えていいだろう。
ほかにも、何人か同調しそうな気配がある。
「私は、はじめから取り返すつもりでいた」
男は、人の輪の外にいる、二人の大柄な男に眼をむけて言った。
不意打ちの乱戦というかたちだった。
その二人は、本気を出したとも思えないのに、働きは尋常ではなかった。
ぶつかった相手を馬から抱えあげ、別の相手へ投げつけるなどということを、たやすくやっていたのだ。
「運がよかったと言うなら、それもよかろう。
だが私は、そういうちっぽけな運など欲しくはない。
信都へ行けば、礼金が出る。
おまけに、信用というものも手に入る」
男の背後には、護衛するように六人が回った。
この六人と、涿県の北で馬を飼うことを生業にしていたひとり。
男が信用しているのは、この七人だけだった。
六人は、涿県で日頃から親しんでいる若者もたちである。
「わかったよ。
それなら馬を頭数で分けねえか。
信用の欲しいやつは、信都へいけばいい。
俺はいやだな。
途中に賊の仲間の巣があって、そこにゃ二百人はいるぜ。
死なないまでも、みすみす馬を奪い返されるに決まっている」
「ならば、去れ。
私は、賊になるつもりはない。
男には、命を捨てても守りきらなければならないものがある。
それが、信義だ、と私は思っている」
「なにが信義だ、こんな世の中で」
汚い歯を剥き出して、男が嗤った。
ほかの三人も嗤いはじめる。
輪の外にいた二人の大男が、ゆっくりと近づいてきた。
草地に風が通った。
草の靡きが、湖上の波のように拡がっていく。
「六百頭の馬を、二日で信都へ届けるだと。
それがうまくできるという心積もりが、あんたにはあるんだろうな」
眼の大きな方の男だった。
まだ若い。
声も大きかった。
「成算がないわけではない。しかし、うまくいくとも断言もできない」
「それでも、やろうというのか?」
(…この続きは本書にてどうぞ)