岳飛伝 十四
  撃撞の章

岳飛と秦容は、本格的な北進を前に戦略を練り、激しい調練を繰り返していた。
中華統一の野望を抱く金の海陵王は、臨安府を狙い進軍するが、南宋軍の程雲に敗れる。
十三湊で王清と再会した李俊はついに絶息する。
岳飛は投降してきた辛晃の首を刎ね、秦容と南宋に侵攻を開始する。
そんな中、史進から“吹毛剣”を届けられた胡土児は、兀朮より北辺に赴くことを命じられた。
初志貫徹に挑む第十四巻。

撃撞の章 目次
 豹兄の風
 成帥の火
 門律の風
 斡北の火
 聞煥の火

 
 豹兄の風

米が、わずかだが手に入るようになった。
値も、たいして上がっていない。
どこから米が出ているのか、王清には見えるようだった。
竜岩の城郭の市場には、米だけでなく、肉などもあった。
金国の軍が徴発していった牛や豚は、その軍が通り過ぎた線上のものだけで、ほかでは当たり前のように、家畜はいたのだ。
じっと座っていて、痺れてしまった脚が、急速に回復してくる。
国そのものが、そういう状態になっている、と王清は思った。
孫家村から、五人が竜岩の城郭へ行って、村が十日間、粥を食べていけるだけの米を買ってきた。
購うための銭は、村のためという名目で蓄えられたものだった。
その米が到着した時、村は祭りのようになった。
孫興が笛を吹き続けるので、なおさらだった。
粥が炊き出され、塩と一緒に配られた。
みんな、雑穀と草しか口にしていない。
干して蓄えてあった魚も、全部出された。
「王清さんは、よく魚を獲ってくれたが、もうやめるかね?」
笛を吹き疲れたような表情で、孫興が言った。
袋に入れた笛は、腰に差している。
「十日に一度ぐらい、獲りに行きます。
河や沼の魚は、干すよりも、じっくり煮た方がよさそうなので、妻にやらせてみようと思っています」
「いい ね。うまいものが欲しい、と思うようになった。
この間までは、一粒でもいいから米が欲しいなどと言っていたのに。
人というのは、浅ましいものだ」
十人を方々へやって、牛、豚、鶏を手に入れようとしていた。
米がない時は、それを手に入れようとは、誰も言わなかった。
牛や豚は、運んできたら、食うのではない。飼うのだ。
そうすることで、みんな安心できるようだった。
「それにしても、いまごろになって、市場に米が出てくるとはね」
「戦の嫌いな米なのでしょう、きっと」
王清が言うと、孫興は声をあげて笑った。
「孫興殿、戦がこれで終ってしまった、と思っておられますか?」
「なんだか、いやな気分はあるのだよ。
金国が、懲りずにまた攻めてくるかもしれないし、全然別な戦が起きることも、あると思っているよ」
「多分、あるのでしょうね」
「また、市場から米が消えるのか」
「それも、多分ですね」
「私は、今年の収穫があったら、米をいくらかでも隠匿しようか、などと考え 。
作柄はまだわからないが、私にできることはそれぐらいだろうから」
「いい考えだと思います、孫興殿。みんな、雑穀や草だけを食って、生きていたくはないでしょうし」
「家畜に与えるもので 飢えを凌いだ。凶作というわけでもないのにだ。
心を尽して稲を育てた村人たちの腹に、ひと粒の米も入らないというのは、もうたくさんだ」
「密かにやることです、孫興殿。たとえ村人たりとも、知られないように」
「あんただけは、知っていてくれるかな、王清さん」
「私が、ですか?」
「ふん いやだと言っても、教えてしまうよ。
あんたは息子だ、といつか思うようになってしまった。
臨安府へ行った息子が、帰ってき ている。そう思いたい」
「でも、私は息子ではありません」
「わかっているさ。でもね、あんたと私は、笛の音で結ばれてしまった父子だよ」
「笛の音ですか。孫興殿の笛には、気持がよく出るようになりした」
「笛はそれでいいのだろう?」
「はい」
「笛は思いだ。学ぶ必要などない。そう言ったのは、王清さんだ」
「食べるものがある、というのは大事なことですね」  
その食べるものの真中にある米を、自在に制限している梁山泊のやり方は、正しいのか。
人が絶対に必要としているものだから、戦などをやめさせるために遣える。
その理屈も、わからないではない。
しかし、人々のこの喜びを、奪っていることにもならないか。
梁山泊の米の買い集めには、王清自身も関った。
北では、麦が買い集められたのだという。
そして 屍が野を覆うような戦は、なくなりつつある。
梁山泊は、多分、正しいのだろう。
少なくとも、税を取り立てるばかりの国より、正しい。
民、ということを考えても、正しい。
しかし村にとって正しいのか。
ひとりの村人にとって、正しいのか。
正しさなど、いくつもあるに違いない。
そして自分が考えられるのは、せいぜい村にとってなにが正しいかぐらい だ。
米が出回るようになってから、しばしば蔡豹を思い出した。雑穀を食らっていた時はそんなことがなかったので、やはり米は蔡豹と結びついているのだろう。
王清が、ちょっとした動機で、喬道清の米集めを手助けした時、蔡豹は、立派な志を持って同じことをやっていた。
内をむいていたものを、外にむかせるためには、志というものが必要だったのだ、と王清は考えてみる。
それでも、どこかに気後れに似たものが滲み出してくるのだ。
子午山を思い出すと、心の底がふるえた。なにもなかった。
しかし、かぎりなく豊かだった。
公母が亡くなった時の、蔡豹の慟哭は、よく憶えている。
失うことの悲しみを、王清はあまり知らなかった。
蔡豹は、幼いころから大事なものを失い続けてきたのだ。
そして、失いたくないものを守り抜いて、死んだ。
村に、最初にやってきたのは、四頭の牛だった。
徴発を受けなかった村を調べあげて、購ってきたのだ。
たった四頭でも、牛がいると豊かな気分になった。
放しておけば、牛は草を食む。
それから、豚が六頭、連れてこられた。
豚は、子沢山だった。
最後に、鶏が二十羽着いたが、こちらはわずかの間に増える。
村のために蓄えられた銭は、それでかなり消えたようだ。
充分ではないが、必要なだけの米は、手に入るようになった。
孫興は自分の銭も出して、村のために米を購っているのだろう。
王清は沼で草魚を獲り、それを干して、魚肉を粥に入れられるようにした。
田 で、稲は育っていた。
それが刈り入れられるまでの数カ月は、保正(名主)の屋敷で粥を配ることになったのだ。
漳州から、笛の註文に来た者がいた。
城郭へ行って売るので、それまで待ってくれ、と王清は言った。
すでにできあがっている笛が何本かあったが、この村で売るのはやめたかった。
中年の商人で、囲っている女が欲しがっているのだと、正直に言った。
はじめ、保正の屋敷を訪ねたので、孫興の笛を見ることになった。
ああ いう 笛 が 欲しい と 男は 二日 言い 続け た が、漆で仕上げたものしか売れない、と王清は答えた。
なにかしら、日々が穏やかに動きはじめている。
王清は、湖にいた。
いつも草魚を獲るところとは 違い、 村から十里(約五キロ)ほど離れた丸いかたちの湖だった。
水が澄んでいたので、桂魚がいるかもしれない、と思ったのだ。
村の近くの沼には、草魚と鯉しかいない。
三度潜って、桂魚らしい姿を捉えた。
やはり、釣るのがいいのか。
海の魚の習性はわかるが、河や湖はわからない。
そして、海ほど網が効果をあげなかった。
釣るための竹の竿と、突くための銛は持ってきていた。
両方とも、自分で作ったものだ。
草魚の場合は、突く方がよかった。
「釣るのだな。その方がいい」
声だけだった。
気配もない。
王清は、銛を構えた。
木立の中から、人影が出てきた。



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