岳飛伝 十
天雷の章
梁山泊が南宋と金、それぞれと戦争状態に入った。
呼延凌と兀朮が一進一退の攻防をしている最中、丞相・撻懶が病死した。
金国内の混乱に乗じ、轟交賈の蕭けん材が監禁されるも、梁山泊の致死軍が救出した。
水上では梁山泊の狄成らが、南宋の造船所を奇襲し、すべて焼失させた。
一方、南では南宋の辛晃の動きを警戒する岳飛と秦容が互いに手を組むことを決める――。
譎詐百端、風雲急を告げる第十巻。
天雷の章 目次
地会の夢
地急の夢
地全の夢
唐晩の風
青富の火
天雷の章
梁山泊が南宋と金、それぞれと戦争状態に入った。
呼延凌と兀朮が一進一退の攻防をしている最中、丞相・撻懶が病死した。
金国内の混乱に乗じ、轟交賈の蕭けん材が監禁されるも、梁山泊の致死軍が救出した。
水上では梁山泊の狄成らが、南宋の造船所を奇襲し、すべて焼失させた。
一方、南では南宋の辛晃の動きを警戒する岳飛と秦容が互いに手を組むことを決める――。
譎詐百端、風雲急を告げる第十巻。
天雷の章 目次
地会の夢
地急の夢
地全の夢
唐晩の風
青富の火
地会の夢
三艘でよかった。
造船所のある支流へ、十艘、二十艘とは入れられない。
三艘で入り、一艘でも造船所に行き着けばいいのだ、と狄成は思った。
もう、費保の船隊は、長江(揚子江)の入口に達していた。
南宋水軍は、まだ姿を見せていないようだ。
狄成は、船隊の最後尾を進んだ。
後方が、気になる。
韓世忠の船隊の一部は、間違いなく長江から定海にかけての海域にいるはずだが、その姿さえ確認されていない。
後方から襲われると、挟撃を受ける恰好になる。
それは、 避けたかった。
狄成が率いているのは、四十艘である。
張朔の旗があがった大型船には、十 艘の中型船がついている。
そして、大型船がもう一艘。
費保の四十五艘にも、一艘の大型船が加わっていた。
項充の平底船が合流したという知らせは、まだ来ていない。
「そろそろですよね、狄成殿。 先頭は、長江に入っているかもしれません」
この戦で副官を命じた男が、船尾楼にあがってきて言った。
一番遣いやすい卜統は、張朔につけてあった。
狄成が帯びた命令は、まだ誰も知らない。
はじめるとなった時に、三艘の船頭を呼んで伝えるつもりだった。
麦秋に入り、海は一年で最も穏やかな時季になっていた。
中型船でも、横への揺れはほとんど感じることはない。
「戦速で、十里(約五キロ)溯上」
張朔から、伝令船が来た。
項充の平底船は、費保の船隊に合流したようだ。
無為軍(郡)の造船所までは、河口からほぼ八百里というところか。
途中には、大きな島のような中洲が多くあり、船隊を隠せる場所は、いくらでもあった。
河口に、崇明と呼ばれる巨大な島があり、そこからが長江であると、梁山泊水軍では決められていた。
河口がどこかは、決めるしかないほど広く、張朔の伝令は、崇明から十里、全速で溯上するというものだった。
行く手に崇明は見えているが、全速にあげるのはそこからである。
「船上の 燃えやすいものは捨てました」
副官が言う。
気の回る男だ。
こういう男にかぎって肚は据わっていないが、自分が造船所にむかったあと、残された船隊を指揮するのは、臆病なぐらいの指揮官が適当だろう、と狄成は考えていた。
崇明の正横まで来た。
それは中洲の中にある、古い砦の跡が真横に来たということだ。
狄成は、戦速の旗を掲げさせた。
船隊が、なにかに押されでもしたように、一斉に動きはじめる。
途中で、遊弋に入る張朔の船隊を追い越した。
狄成は、そちらを見ないようにしていた。
なにか合図があれば、気の回る副官が見落とすはずはないのだ。
櫓の拍子をとる音が、船尾楼まで大きく聞えてきた。
船頭は、櫓床の横を行ったり来たりしながら、木を打ち鳴らしている。
水上が静かだから、できることだ。
長江ほどの大河になると、風が吹いてもかなりの波が立つ。
死ぬのは、たやすいことだった。
これまで、命を失いかけたことがあるような気もするが、憶えてさえもいない。
死ぬということについて、思い浮かべたのは、もしかするとはじめてかもしれない
張朔から受けた命令を、遂行するまでは、死ねない。 一度、死ねないと考えると、死ぬことを思い浮かべるだけで、躰がぶるっとふるえ、緊張した。
死ぬことはたやすいのに、死ねないのだ。
板斧を二本出して、振る。
陸にいる時は、それで何本も大木を倒した。
岩も斬ってみた。
一本の板斧が二本に見えるほど目まぐるしく持ち替えた、李逵と同じようにやるつもりはなかった。
もともと剣の稽古を積んできて、それは右でも左でも振れる。
はじめから、二本持っていればいいのだ。
「十里、進みました」
副官が、手柄でも立てたように言った。
狄成は、手だけで停船の合図を出した。
これから先は、費保の指揮下に入るということだった。
費保の指揮に従うことに、不満はなかった。
費保も倪雲も、自分の兄貴分なのだ。
その上に、上青がいて、李俊がいる。
費保と倪雲はそれほどでもないが、李俊と上青は、昔からとんでもなくこわい兄だった。
李俊に張り飛ばされると、頭がくらっとする。
上青を怒らせると、三日、めしを抜かなければならないのだと思う。
上青はいま西域のとば口にいて、しかし自分で躰を動かせないほど衰えているのだという。
盛栄も死んだので、西の端は牛直という若造が差配している。
張朔が信用していれば、それでいいことで、狄成には関心がない。
「これから、ゆっくり溯上します。 敵を見つけたら、殲滅させよという命令も、一緒に届きました」
伝令の船と話をした副官が、船尾楼に駈けあがってきて言った。
伝令船は、そのまま下流に航走っていった。
張朔に報告するための伝令船が、この船にも寄っただけだろう。
「鉤縄を、用意しておけ」
「鉤縄ですか。 長江守備の南宋水軍は、中型船だと聞いていますが」
狄成は 副官の腹を蹴りあげた。海鰍 が、 い かもしれない。
それを、副官は読もうとしていない。
そして狄成の命令に、わずかだが歯むかう態度を見せた。
「立て。男が、蹴られたぐらいで、しゃがみこむな。
いいか、海鰍船が現われたら、鉤縄をかけて乗り移る。あんなもんは 燃やしちまうさ。 浸水が、命取りになるって構造じゃねえよ。
こちらの戦時艤装の大型船が、腹に穴を穿たれたぐらいじゃ、沈まないのと同じさ」
「海鰍船が、いるんですね。 鉤縄を用意しておきます」
「おい。いるかどうか、わからねえよ。しかし、海鰍船が隠れられる中洲は、これからいくらでも出てくる」
(…この続きは本書にてどうぞ)