岳飛伝 九
  曉角の章

戦いの気配が次第に濃厚になっていた。
岳都で高山の民を加え調練の日々を送る岳飛。
南宋水軍の韓世忠は遭難した梁紅玉を救うため、張朔の交易船を襲った。
南下してくる南宋軍に対し岳飛は警戒を強め、小梁山の秦容と手を組むことに。
金国では轟交賈の蕭けん材が、物流の動きがおかしいことを察知する。
そんな中、小梁山と甘蔗園が何者かに襲撃された――。
本格的な水上戦と新たな山岳戦に臨む第九巻。

曉角の章 目次
 地巧の夢
 赫青の火
 地明の夢
 天速の光
 照夜の風
 
 地巧の夢

雨季に入るころ、小梁山に住む人間は、四千を超えた。
ほとんどが家族持ちだが、小梁山での仕事を見つけた者も、少なくないと、劉剛は思っいた。
家の建築は盛んになり、儀応の組だけでは手が回らず、自分たちの手で、住む家を建てようという者もいるようだ。
そういう家も、儀応は必ず検分している。
水を得ること、使った水を流すことなど、しっかり決めなければならないからだ。
集落らしい雰囲気は出てきたが、それでも家は点々と散在しているとしか見えない。
先回りをするように、劉剛は、食堂や店、養生所や学問所などを建設した。
そこの人員は手配中だが、食堂などはすでに開いていた。
梁山泊からやってくる人間が、増え続けているのは、南の豊かさが噂になりはじめているからなのか。
敵など、どこにもいないと考えられているからなのか。
梁山泊は、四囲が敵だった。
講和などで、実戦の状態にはないが、いつ戦がはじまるかもしれない緊張感は、民の心を苛んでもいるはずだ。
それに梁山泊では、新しくなにかはじめようという余地を、あまり多く見出せなくなっている。
若い者には、なにかを試せる場所ではなくなっているのかもしれない。
南に来る人間の多くは、若者だった。
小梁山全体をどう作りあげるか、ということが劉剛の主要な仕事であることに変りはないが、そこで暮らす人の心もまた、作りあげなければならないこととしてあった。
ふた月後には、学問所も開かれる。
そこにいる教師も、ほ 決まってきた。
役所では、石英が忙しく働き、部下の数も二十名近くに増えていた。
雨が降りはじめると、劉剛は大抵は石英と会っていた。
いま、最も話し合わなければならない人間だからだ。
それに、儀応が加わることもある。
雨季には、雨が降っている間が休息の時間、ということになっているが、劉剛にとっては恰好の会議の時間だった。
石英も、うんざりした表情をしながら、劉剛の話に応じてくる。
「雨季が終るころには、 一万を超えている。
わかるか、石英、一万だ。
なにもかもが、不足してくる。
小梁山の住人には、食いものさえあればいい、というわけにはいかないからな」
食糧は、充分にある。
日々の暮らしに必要なものも、大抵は買える。
しかし、学問所は手狭になり、教師の数も不足してくるだろう。
養生所では、決定的に医師が足りなくなる。
梁山泊から来た者は、それまでなにをやっていたか、劉剛はできるかぎり細かく知るようにしていた。
役人として遣えそうな者が、二十人以上いた。
教師ができそうな者も、三人ほどいた。
ほかにも、さまざまな職種にいた者を、冊子に書きつけてある。
中央の広場に柱が立ててあり、『小梁山』の大きな旗が掲げられている。
それは、巡邏隊になった者が五名、毎朝揚げて、日暮れ前に降ろす。
別に、『替天行道』の旗が、役所の前で翻っているが、それは大きくはない。
「役所の仕事という点では、心配ないよ。小梁山だけでなく、甘蔗園も含めて」
  石英の担当は財務で、人がいないので民政全般を見ているというところがある。
民政は、徐々にほかの者に移しているようだ。
「梁山泊から、今後、どれほどの流入があるのだろ う、劉剛?」
「戦の気運というのが、もっぱらの噂だからな」
「梁山泊の領土が、戦場になるのだろうか?」
「それはわからないが」
梁山泊が戦場になったとしても、これまで民には逃げる場所がなかった。
いまは、南に小梁山がある。
ただ、小梁山もどこか 戦雲を孕んでいて、それは梁山泊にも伝わっているはずだ。
南に来る人間のほとんどは、戦を嫌ってというより、新しいものを求めて旅をしてくる。
梁山泊は、中華のどこよりも満たされているはずだが、それでも新しいものは、人を惹きつけてやまないのだろう。
「土地の人間は、まだ半信半疑なのだろうな」
「おい、石英。 土地の人間なんて言い方はやめろ」
「なにを言っている。 おまえは、少し入れこみすぎているな、 劉剛。
小梁山で暮らしていないのは、土地の人間だろう。 甘蔗園にいる者は別としてな」
「まあ、そうなんだが」  
夢中になると、それしか見えないというところが、自分にはある。
だから、行先を見失うなという李俊の言葉を、劉剛はしばしば思い浮かべる。
石英との話は、大抵は細かいことで、煩雑なものを押しつけている、という思いに襲われることがあった。
儀応や馬礼に対しては、それはできないのだ。
「なあ、石英。 ここに酒を飲ませる店ができたら、ひと晩、奢ってやるよ」
「酔ったおまえの面倒を、俺が看るのか。 俺は、たいして酒が飲めないのだからな」
「じゃ、油で揚げた房芋(バナナ)に、蜂蜜をまぶしたものを、奢ってやるよ。 甘蔗糖とは、また違う甘さだぞ」
「そんなことより、調練から戻ってきた者たちは、どうなのだ。 荒っぽくなっていたりするのではないのか?」
三カ月の調練に行った者が、戻ってくる。
その時の状態を、劉剛はしっかり見ることを怠ってはいなかった。
なにしろ、最後は、死すれすれのところまで追いこまれるのだ。
それでも、戻ってきた者は、なぜかやさしくなっていることが多かった。
自分以外の人間のことを、自分と同じように考えられる。
そう思えることが、しばしばなのだ。  
それについて、劉剛は秦容に訊いたことがあるが、かすかな笑みと頷きが返ってきただけだった。
当たり前だ、とその笑みは語っていたような気がする。
「心配ない、 石英。 調練は人間を作る、と俺は思っているよ」
「そうか」



(…この続きは本書にてどうぞ)
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