岳飛伝 六
  転遠の章

金軍・兀朮と呼吸を合わせたかのように戦を停止し、本拠に戻った岳飛。
一方、呉用は宣凱に「岳飛を救え」と言い遺していた。
梁山泊が救出に動き始める。
ようやく臨安府に赴いた岳飛は、帝に拝謁後監禁されてしまう。
独立軍閥を貫く姿勢が、宰相・秦桧の国造りにおける理念と衝突する。
ついに、岳飛に死罪の処断が――。
シリーズ前半、最大のクライマックスを迎える緊迫の第六巻。

転遠の章 目次
 披燕の火
 許父の火
 天間の夢
 男屯の火
 天平の夢
 
 披燕の火

気分のいい日は、寝台から降りて、庭などを歩いた。
そういうことを重ねると、胸の痛みが襲ってきた時も、軽くて済むような気がする、と顧大嫂が言った。
耶律大石も、実のところそう感じていた。
ただ、歩きすぎても、胸の痛みは襲ってくるのだ。
前兆はある。
息が苦しくなってくる。
何歩ほど歩くと息が苦しくなり、さらに何歩で胸が痛くなるのか。
顧大嫂は一緒に歩きながら、くり返しくり返し、勘定していた。
そして、耶律大石を止めるのだ。
息遣いを、窺っている気配もある。
雨の少ない土地で、空気はいつも乾いていた。
暑くじっとりしているより、しのぎやすいことは確かだ。
特に宮殿は石造りなので、中はひんやりとしている。
「今日は、きのうより長く歩いたのではないかな」
寝台に戻ると、耶律大石は言った。
横をむいたまま、顧大嫂は頷いただけである。
横たわった耶律大石の躰に、顧大嫂の手がのびてきて、足の爪先からはじめ、全身をほぐしていく。
気持がよくなり、途中で眠ってしまうことも多かった。
「道の途中に、泊れる宿舎を建てる。
前から言っているが、それをはじめさせようと思う」
「蕭廉乙を、また試そうってのかい、大石?」
「それもあるが、必要なものだ。戦時の輸送に近いからな、いまは」
東西二本の交易路に、点々と宿舎を設ければ、輸送に携わる者たちは、ずいぶんと楽になる。
いままでは、とても旅は無理だと言っていた荷主の商人たちも、自ら動こうとするかもしれない。
「顧大嫂、おまえの食堂に、料理人は何人いる?」
顧大嫂は、はじめ虎思斡耳朶で、食堂をやっていた。
人気が出て、すぐに規模が大きくなり、次々に新しいものを作り、いまでは七軒が西遼の各地にある。
虎思斡耳朶には、四軒である。
そこで顧大嫂は耶律大石の女房になったので、八軒目は作られていない。
女房といっても、皇后なのである。
そして自分は、帝なのだ。
そんなことはどうでもいいが、帝や皇后がやるべきことというのはあり、七軒の食堂も部下にした者たちに任せている。
「百二十人というところかね」
「そんなにか」
「一軒の宿泊所の賄いを任せられるのは、四十二人」
「その中の、二十人ぐらい、回せないか?」
料理人は、食堂を次々に回るようになっていた。
ひとつのところに、長くても一年しかいない。
「四十人を回してやろう。
それぐらいの宿泊所を、同時に建てるんだよ、 大石。
最低でも、四十軒は必要だね。
そして同時に開く。
なにしろ、東西二本の道はあるんだ から」
「おまえはいつも、大胆なことを考えるのだ な。俺より、ずっと肚が据わっている」
「大石は、いまのままがいい。 あたしには、細かいところは見えない」
「見る気になれば、見えているさ。
細かいやつが二人もいると、 下が 面倒になる。 それで片眼をつぶっておる」 顧大嫂の表情は、 まったく動いていない。
威厳がある、と言ってもよかった。
それが幼女のような顔になるのは、媾合っている時だけだ。
その媾合いも、以前ほど頻繁にはできなくなった。
顧大嫂が許さないのである。
西遼では、塔不煙と呼ばれていた。
耶律大石が、ふざけてつけた名だとみんな言っているようだが、母の名だった。
遼では、ほとんどの女が、まともな名を持っていなかった。
とふえ、というのが、母の名だ。
言葉でそう呼ばれていたことしか、耶律大石は知らない。
漢語の書物は、いくらでも宋から入ってきていたが、字を読める女の数も少なかった。
なぜ顧大嫂に、塔不煙という名をつけたのか。
母は、耶律大石が九歳の時に、病で死んだ。
それから、母のことを思い出すことも、 ほとんどなかった。
「四十人か」
「四十軒の宿泊所を作れば、そこで出す料理で、この国はいくらか儲かる。
まずいものは、あたしが出させない」
「焼き饅頭は?」
「あれは、あたしが作らなければ駄目さ」
「そうだな。 俺だけが食う料理だ」
「自惚れるな。あたしはあれを、郤妁や韓順にも食わせてやって いる。
おまえのためだけに、あたしが作るか」
「そんなこと、言うな。 俺にだけは、特別の焼き饅頭を作ってくれよ」
「甘えるんじゃない」
顧大嫂が、耶律大石のためだけの焼き饅頭を作っていることを、知っていた。
それでも、なにか言って甘えてみる。
山脈の西が、どういうふうに治まるのかが、いま大きな問題だった。
交易路の周辺の部族は、ほぼ西遼に従っている。
ただ、北の草原に大きな部族がいて、戦にも出てこなければ、交渉の使者も受けつけないという。
若い者を集めれば、二万の兵力はあるはずで、沈黙はどこか不気味だった。  
いままでのところ、韓成は血を見ることもなく、うまく交易路を保持した。
耶律大石がこんなふうに遣いたいと思った通りの働きをしている。  
最初に韓成に会った時に感じたのは、ただ腰の引けた態度だけだった。
それが、 ほんとうにすべてから腰を引いているのかどう か、 試してみる必 は あった。
西遼や西夏の交易路を整える時、韓成はこれはと感じるほどの力量を示したのだ。
いまのところ、韓成を見誤ってはいない。
「あの跳ねっ返りは、まだ軍か?」
「性に合ってるみたいだねえ」
「息子を放り出していることについちゃ、父親と同じではないか」
「悩んではいる。 それは、あたしにはわかる。
あたしが韓順の面倒を看ていることで、安心させちまったところがあるよ」
  虎思斡耳朶へ来たころの郤妁は、ほんとうに跳ね返りだった。
武術では誰にも負けない、と耶律大石の前で豪語したのだ。
郤妁と立合ったのは、顧大嫂だった。
一瞬で打ち倒し 静かに戻ってきた。
全身全霊の一撃だったのだということは、顧大嫂がしばらく寝台に横たわっていたことでもわかる。
六十を超えても、それだけの力は出せたのだ。
耶律大石には、到底できないことだった。
「大石、韓成はあのまんまかい?」
「必要な男になっている。 自分ではどう思っているか、 わからんが」
「家族で暮らさせる気は、 やはりない か」
「それは、郤妁次第だ」  
顧大嫂は、家族を会わせようとした。
いま会っても同じだと、会うのを禁じたのは耶律大石だった。
韓順が不憫だと思ったが、二人が父と母になろうと気持を一致させないかぎり、会わせるつもりはなかった。
西遼は、いまのところ平穏である。
国としての姿も整ってきたが、部族の独立性も、かなりの部分まで認め いる。
四十の宿泊所の開設は、さらに交易路を安定させるはずだが、実務にあたる蕭廉乙は、かなり苦労することになるだろう。
建物はただ作ればいいが、そこで扱う食糧の仕入れなどで、部族による不公平が生じると、紛争のもとになる。
そういうことも、いまからしっかり整えておきたかった。
部族が多くあるということを、耶律大石は悪いことだと思ってはいなかった。
自分もかつては、遼国の北辺の軍閥で、それは部族と呼んでもいいものだった。
  同じ部族の中の、掟は大事にする。
それに加えて、西遼の律も守らせる。
律は複雑なものではなく、族長の責任だけは明確にしてあった。
族長の会議は、半年に一度、虎思斡耳朶で三日間、 開かれることになっている。
三日目の会議には、耶律大石も帝として出席し、会議で決まったことに、ひとつずつ承認を与える。
時には、議決を取り消すこともあった。
帝は、いれば便利なもの、という程度に過ぎない。
それ以上の権限を、耶律大石はできるかぎり抑えていた。  
交易路からあがる利が、いつまでも続くと信じるしかなかった。
梁山泊の商隊が、相当の部分を占めるが、商人が個人で組む隊商もあった。
物は、動くのだ。
動くことによって、はじめて物として生きる。



(…この続きは本書にてどうぞ)
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