岳飛伝 三
  嘶鳴の章

金軍総帥・兀朮が梁山泊の北に展開すると同時に、撻懶の軍も南進を始めた。
戦いの幕がついに切って落とされた。
呼延凌率いる梁山泊軍との全面対決となる激突だった。
史進の遊撃隊の奇襲により、大打撃を蒙った金軍は後退し、戦いは収束。梁山泊は若い宣凱を単身金に差し向け、講和の交渉に入った。
一方、岳飛は来るべき戦いに向け準備を開始する。
それぞれの思惑が交錯し、血の気配漂う第三巻。

嘶鳴の章 目次
 地獣の光
 波濤の風
 双鞭の夢
 婁中の火
 御竜の風
  地獣の光

撻懶は、思わず胡床から腰をあげた。
兀朮が、前へ出ている。
海東青鶻の旗が、相当な勢いで、動いている。
なぜと考える前に、戦場の空気が、一瞬にして変わったのを、撻懶は感じた。
それは、撻懶の軍にも及んできた。
金軍全体の闘気が、これまでにないほど高まっている。
それは兀朮の動きが、ただ前に出るのではなく、明らかに前衛となって自ら闘うという、強い意志を見せているからだ。
なぜいま、と撻懶はようやく思った。
戦場は、膠着である。
自分には感じなかった戦機を、兀朮は見きわめたのか。
「乙移に、斜哥の後衛を。総師の旗から、眼を離すな」
伝令が、駈けだしていった。
梁山泊軍が、不穏な気配を漂わせはじめている。
『呼』の旗も、かなり前へ出てきたようだ。
「馬」
撻懶自身も、出撃する時だった。
総攻撃の合図はないので、一度で決められると、兀朮は考えていないだろう。
兀朮からの伝令が、駈けこんできた。
昨夜、史進の軍の所在を摑んで夜襲をかけた七千騎が、全滅したのだという。
兀朮が前に出たのは、全滅の報を受けたからなのか。
普通だと、一旦、退がる。
大兵を擁していれば、なおさらである。
しかし兀朮は逡巡することなく、前へ出たようである。
金軍の兵は、熱を発しはじめていた。
どこかで炎があがれば、全軍が燃え盛るだろう。
兀朮は、期せずして、大将が持たなければならないなにかを、摑んだのかもしれない。
兵に力を出させる。
普段の戦闘の、二倍、三倍もの力を出させる。
大将には、最も重要な要素であろう。
それを兀朮は、瞬間的に摑んだに違いない。
自分が、あそこで前に出られたとは、撻懶は思わなかった。
守りをかため、退がる。
考えるのは、それだけだったはずだ。
どこかで、攻めに徹する。
退却という言葉が、頭の中から消える。
そうなった軍は、強い。
梁山泊軍もまた、攻めに徹してきているように見えた。
兀朮が、二万騎ほどで、いきなり疾駆をはじめた。
ぶつかったのは、歩兵との連携のかたちを作ろうとしていた、秦容の軍である。
一瞬の、隙を衝いた。
秦容は、騎馬隊が歩兵の前へ回ることで、なんとか兀朮を受けた。
しかしひと時だった。

(…この続きは本書にてどうぞ)
Designed By Hirakyu Corp.