楠木正成 上

ときは鎌倉末期。 幕府の命数すでになく、乱世到来の兆しのなか、大志を胸にじっと身を伏せる力を蓄える男がひとり。
その名は楠木正成───。
街道を抑え流通を掌握しつつ雌伏を続けた一介の悪党は、倒幕の機熟するにおよんで草莽のなかから立ち上がり、寡兵を率いて強大な六波羅軍に戦いを挑む。
己が自由なる魂を守り抜くために!
北方「南北朝」の集大成たる渾身の歴史巨編。


<文庫本>2003年 6月25日 初版発行

悪党の秋

火を熾すのは、昔から誰よりもうまかった。
湿った木でも、どこか乾いたところがあるものなのだ。
そこに火をつけ、少しずつ拡げていく。
それで湿ったところも乾き、火の勢いは強くなる。
正成は、燃えあがった炎のそばに、湿った枝を二本置いた。
鳥丸が、またひと抱えの薪を運んできた。
「もうよいぞ。干魚を焼け」
「はい。細い枝に刺します」
「そんなことはしなくても、石の上に置いておけばいい」
火のそばには、いつも石をひとつ置く。
ほとんど炎に当たるようなところだ。
その石は熱くなり、やがて手も触れられないほどになる。
獣肉なども、その上で焼く。
「北へ一里で、矢野荘か」
呟いた正成の顔を、鳥丸が見つめていた。
「どうした?」
「さっきから、北ばかり見ておられます、殿は」
「そうか」
矢野荘には、かつて寺田方念という悪党がいた。
いまでも都鄙名誉の悪党、と呼ばれて時々人の口にものぼる。
正成が見た、最初の悪党の戦だった。
「五年前に、死んだ男がいる」
「私が十歳の時ですね」
鳥丸は、正成の屋敷の下人だった。
姓はない。
楠木家でも、昔はそうだったのだという。
屋敷の入口に大きな楠があったので、楠木という姓にした、と祖父から一度聞かされたことがあった。
その前は違う姓で、さらにその前は姓などなかったという。
鳥丸も、元服していい歳になっていた。
元服したら、姓を考えればいい。
「死んだ方を、御存知だったのですね」
「知らん。見たことがあるだけだ」
あの時、正成はまだ二十二歳だった。

(…この続きは本書にてどうぞ)

Designed By Hirakyu Corp.