悪党の裔 上

播磨の悪党の首魁には大きすぎる夢だった。
おのが手で天下を決したい───
楠木正成と出会った日から、大望が胸に宿った。
軍資金を蓄え兵を鍛えて時を待ち、遂に兵を挙げた。
目指すは京。
倒幕を掲げた播磨の義軍は一路六波羅へと攻め上る。
寡兵を率いて敗北を知らず、建武動乱の行方を決した男
───赤松円心則村をを通して描く渾身の太平記!

<単行本>1992年11月 中央公論社刊
<文庫本>1995年12月 3日 初版発行

遠い時

犬が哮えていた。
風がやみ、ほかには何も聞えなかった。
夜明け前で、闇が凍てつくような寒さだ。
足を動かすと、霜柱の崩れる音が耳に届いてくる。
もう、半刻はじっとしているだろうか。
陽が昇るのはすぐだろう。
「光義」
円心が呼ぶと、霜柱の崩れる音が三度聞えた。
「兵を半数に分けて、丘を駈けさせてこい。躰を暖めさせるのだ」
兵の数は、およそ百五十である。
低い返事をした中山光義が、霜柱が崩れる音をさせて遠ざかっている。
後姿も、闇に紛れて見えはしなかった。
吐く息の白さがなんとか見てとれる明るさになったころ、兵たちは戻ってきた。
人の肌が発する熱を、円心はかすかに感じた。
空の端が色づきはじめると、陽が昇るのは早い。
物見に出していた二人が戻ってきた。
荷駄は、夜明けとともに高田庄の代官の館を出発したという。
二日で、六波羅に届けようというのだろう。
警固の武士がおよそ百。
半刻もせずに、丘のむこうから姿を現すはずだ。
荷駄の列を襲う機会は、そうあるものではなかった。
いつ、どこから荷駄の列が出るかはわからず、軍勢に護られて速やかに移動していく。
佐用郡を中心に宍粟郡や赤穂郡に散らばった一族の兵を集めるには、時がかかりすぎるのだ。
赤松村の円心の館には、二十名ほどの郎党しかいない。
播磨でも、荘園を荒らす悪党の横行は見られたが、六波羅探題の直轄領だけあって、鎮圧も厳しかった。
ちょっと人が集まると、すぐに軍勢が現れる。
隙を衝いて襲い、速やかに散るしか方法がないのだ。
高田庄kら荷駄の列が出ることは、二日前に知った。
この三年ほど、西播磨一帯に円心は人を配置していた。
それぞれの庄の代官の動きを知るためというより、むしろ自分と同類の悪党の実態を摑みたかったのである。
播磨でなにかが起きるとすれば、悪党が重要な役割を担うはずだ、という思いがあった。

(…この続きは本書にてどうぞ)

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