白日 

少年時代の母を亡くし、父と決別した天才面打ち師・京野英之は異端の名人・高井峰山の若い女の面を舞台で観て打ちのめされる。
苦悩の末に鑿を棄て、漁師となった京野は頑なに能面作りの依頼を拒み続けるが、ある日、彼の元に古木が送られてくる。
蘇る日、そして高井との再会。
男の魂に巣食う“母なる地獄”を描く。


<文庫本>2006/01/10 初版発行

第一章

血が、水の中に拡がった。
それは束の間で、静かだった海面が、いきなり飛沫をあげはじめた。
血の匂い。
しかも、自分の血の匂いだ。
それで、死の間際からいきなり蘇生する。
鮫とは、そういう魚だった。
もう一本、私は鮫の腹部に銛を打ち込んだ。
柄の短い手銛で、返しが大きいのでナイフで切り開かないかぎり、抜けることはない。
エンジンの出力を上げた。
鮫にかかったロープは十メートルほどのばす。
それで十分引き回せば、躰の血が抜けて鮫は死ぬ。
私が考えているのは、できるかぎり鮫の歯でルアーを傷つけないことだった。
生きたまま取りこもうとすると、鮫は暴れる。
棍棒で頭を叩いて殺める方法もあるが、その用意がボートにはなかった。
漁に出てきたわけではない。
何種類かの、ルアーのテストなのだ。
十分で、鮫は死んだ。
引き寄せ、まず二本の銛を、ナイフで肉を切り開きながら抜いた。
それから、慎重に鉤をはずした。
鮫の歯は、何列にも生えていて鋭く、ルアーヘッドの表面が細かい傷を受けるのだ。
鉤は、しっかりと顎に食いこんでかかっていた。
偶然ひっかかったのではなく、鮫はルアーを魚とみて食らいついたのだ。
ルアーヘッドの表面には、細かい傷がいくらかついているだけだった。
リーダーと呼ばれる、鉤がついている部分の糸は、ナイロン・モノフィラメントではなくワイヤーを五メートルほど使っていた。
道糸は、丈夫なロープに近い紐で、どんな大物がきても切れることはなかった。
もっとも、大物を狙ったのではなく、テストだから万一の事態でも切れてルアーをなくさない用心をしていただけだった。
一メートル弱の鮫だった。
私はナイフで顎の骨だけを丸く切り離すと、あとは海に捨てた。
骨と歯は、うまく組み合わせると、ルアーヘッドになるかもしれない。
バケツで水を汲み、ボートの上の血を流した。
鮫の多い海域ではない。
鮫の多いところなら、わずかな血でも群れになって集まってくる。
さらに、三つほどルアーのテストをした。

(…この続きは本書にてどうぞ)

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