擬態 

躰の中で、なにかが止まった・・・・。
四年前のある日、平凡な会社員・立原に生じたある感覚。
いまや彼にとって、日常や人間性など無意味なものでしかなく、鍛えあげた精神と肉体が次第に凶器と化していく。
取引先のビルの立ち退きを巡る抗争事件に巻き込まれた立原は───。
男の心の闇を抉る異色のハードボイルド長編小説。


<文庫本>2004/11/10 初版発行

第一章

時計が止まったような気がした。
時の流れが止まったというのではなく、時計の針が止まったという感じなのだが、時計を見ていてそうなったのではない。
躰の中で、そういう感覚が起きた。
躰の中で、なにかが止まった。
四年前のことだった。
それから立原は、躰を動かすことをはじめた。
はじめ五キロ走り、筋肉トレーニングを一時間やった。
それで、息も絶え絶えだった。
三十六歳になったばかりの時だ。
ふた月ほどで十キロ走れるようになり、体重も五キロ以上減った。
ボクシングジムに、入門した。
ダイエットのためだと言うと、立原の躰を見て会長は黙って頷いた。
百七十八センチの、八十五キロだった。
一番重たい時は、九十キロあったということになる。
ロードワークと筋トレ、それに縄跳びとシャドーボクシングが加わった。
大学のころは、空手をやっていた。
顔以外の打撃は許されている流派で、二段まで進んだのだ。
もう一度空手をやることも考えたが、目先の変わったもの、という気になったボクシングは、顔を狙って打つことができる。
まず、目標は八十キロを切ることだ、と会長に言われた。
それは、ふた月で軽くクリアした。
そこから、サンドバッグやパンチングボールを打つことを許された。
意外にパンチがありそうじゃないか。
そのころは、会長にそう言われた。
実際にミット打ちをやった時、相手をしたトレーナーは全身汗まみれになった。
空手とは足の運びがずいぶんと違ったが、打撃力そのものはあまり衰えていなかったのだ。
ジムには、ランキングボクサーがひとりと、プロテストの合格者が三人たが、みんな軽量級で、彼らとのスパーリングだけは許されなかった。
立原は夜のロードワークの途中で、公園の樹木を相手に、パンチを出し、決してジムでは見せない蹴りもやった。
なぜこんなことを四年も続けているのか、とは考えなかった。
強いて言えば、時計が止まったと感じた時、生きていることに意味も感じられなくなったからなのか。
それが自分の躰を苛め抜くこととどう繋がるかは、うまく説明できない。
時計が止まる三カ月前に、立原は離婚していた。
結婚したことに大きな理由がないのと同じように、離婚にも理由はなかったような気がする。妻の佳子は、二カ月だけ下の同年だった。

(…この続きは本書にてどうぞ)

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